Grand Kabuki History (前編)~歌舞伎アウトバウンド100周年に向けて~ Grand Kabuki History (前編)~歌舞伎アウトバウンド100周年に向けて~

 「歌舞伎は旅する大使館」—— この言葉は、歌舞伎の海外公演の意義を表現した言葉としてよく知られています。文化的側面から国際交流に大きな役割を果たしながら、歌舞伎は100年近く海外公演を重ねてきました。本来であれば、日本文化への興味が一層盛り上がるはずであったこの夏。新型コロナウイルスの広がりにより、国と国との往来が阻まれる事態となっています。海を越えての文化交流が戻るよう願いを込めて、歌舞伎美人では歌舞伎の海外公演の歴史を振り返る特集を企画しました。
 前編となる今回は、海外公演の始まった1920年代から2000年代まで、歌舞伎が文化交流の一端を担ってきた足跡を年表とともにたどり、後編では、2000年代以降の海外公演を、歌舞伎俳優、スタッフへのインタビューで振り返ります。


海外公演の歴史

       文/飯塚美砂(公益財団法人松竹大谷図書館)
写真提供/公益財団法人松竹大谷図書館
構成/歌舞伎美人編集部

初めての海外公演

 初めて本格的な歌舞伎公演を海外で行ったのは昭和3(1928)年、今から100年近くも前のことです。大正11(1922)年に建国されたソビエト社会主義共和国連邦(現・ロシア連邦)が、日本に西洋演劇を紹介し歌舞伎にも人脈をもち、前年建国10年祭にソビエトに招待されていた小山内薫を通じて歌舞伎の訪ソ公演を打診してきました。歌舞伎に関心を抱いていたソ連側と、常々歌舞伎を世界に紹介したいと考えていた松竹合名社社長 大谷竹次郎、二世市川左團次らの意向が合い、両国間で交渉が始まりました。

 ソ連側は歌舞伎の大道具や舞台機構まで、日本での上演を再現した本格的な舞台を望んでおり、日本側でも一流の格と集客数を備えた劇場での上演を条件にしたので、莫大な経費が予想されましたが、招聘側、製作側がともに費用の捻出に努め、参加する歌舞伎俳優諸氏までが無報酬での参加を申し出て、なんとか金銭的問題を解決し、実現にこぎつけました。

 一行は俳優20名を含む総勢48名、船でウラジオストックへ、そこからはシベリア鉄道でモスクワへ向かう2週間がかりの旅でしたが、行く先々で歓待をうけ、公演は大成功を収めて歌舞伎を一躍世界の演劇界に知らしめることとなりました。また一行は、演出家スタニスラフスキーや映画監督エイゼンシュタインはじめ、当時一流の文化人とも親しく交流し、その後のソ連の演劇界、映画界にも大きな影響を与えたと言われています。歌舞伎が世界的に通用する舞台芸術であると、確信を得た第一歩でした。

昭和3(1928)年ソ連公演にて記念撮影
前列に城戸四郎団長、二世市川左團次、池田大伍文芸顧問、後列にエイゼンシュタインの顔が見える
「市川左團次歌舞伎紀行」昭和4(1929)年 平凡社

                     


昭和30(1955)年中国公演にて、三世市川段四郎と隈を取る京劇俳優

国交のない中国へ

 2回目の海外公演は、戦後間もない昭和30(1955)年に中華人民共和国で行われました。当時はまだ、日本と中国の間には正式な国交は成立していませんでしたが、初の両国の文化交流事業として中国最大の祝典である国慶節に歌舞伎が招かれることになったのです。そこには中国側の毛沢東主席、周恩来首相、日本側では鳩山一郎首相らの多大なる尽力がありました。参加したのは二世市川猿之助(後の初世市川猿翁)、三世市川段四郎などの俳優20名を含め総勢59名。日本を代表して中国で公演する重圧に寝られぬ思いをしたという猿之助の不安は杞憂に終わり、初日から大盛況となり予定していた天津行を取りやめ、北京公演を3日間日延べしたほどでした。

 初日には終演を告げる打ち出しの太鼓を打ったところ、また何か始まると思った観客が続々と戻り始め、ついには周恩来首相まで席に着いてしまったので、慌ててアナウンスを入れたという珍事もあったようです。また、歌舞伎と同じように女形の伝統をもつ京劇の名優梅蘭芳()らとも交流を深め、この訪中公演の翌年、返礼として梅蘭芳ら京劇の一座が来日し、歌舞伎座をはじめ各地で親善公演を行っています。


ショービジネスの中心、アメリカへデビュー
 
 歌舞伎が海外公演で最も多く訪れている国はアメリカですが、初のアメリカ公演となったのは、第3回目にあたる昭和35(1960)年でした。十七世中村勘三郎、六世中村歌右衛門、二世尾上松緑を中心に俳優24名を含む総勢64名で3都市を回り、公演回数43ステージにおよぶ大がかりな公演となりました。トランジスタラジオのイヤホンを使った同時解説や、“グランド・カブキ”という呼称もこのとき始まっています。

 折しもブロードウェイではユニオン(労働組合)のストライキの最中で他の劇場が休止していたこともあり、歌舞伎公演はテレビやラジオなどでも大きく取り上げられ大人気となり、東洋の小さな国に過ぎなかった“日本”の存在と文化を知らしめる糸口となりました。 

昭和35(1960)年アメリカ公演、ニューヨークにて。左より、十七世中村勘三郎、二世尾上松緑、六世中村歌右衛門



海外公演訪問国、訪問都市一覧(2018年時点)【画像をクリックして拡大】

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