歌舞伎いろは

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登場から久吉に逆手を取られるまで

 『太功記』「十段目」の光秀は、初菊との盃事が済んだ十次郎の出陣後に「夕顔棚のこなたより、現れ出でたる武智光秀」の浄瑠璃で舞台に登場しますね。
 「芯の役の出どころが実にうまくできています。光秀は貫目(重み)のいる役で、出では凄みがないとダメです。顔には、国崩しのような役でよく使う、頬に陰影をつける痩隈(やせぐま)を取ります」

 演者によって、やり方も異なるようですが。
 「藪から出た光秀は右手に笠を持っていますが、このときに笠を下げるやり方と上げるやり方があります。私は上げるほうですが、いきなりには上げません。一回ちょっと下げてうなずいてから、よしということで上げる。そのほうが派手になる。光秀を教えてくださった(二世尾上)松緑おじさんにうかがいました」
 「出ではいろんなことをやった方がいたと聞いております。床下から出てきて髪についた蜘蛛の巣を払った方もいらしたそうですよ」


 光秀は僧に身をやつした久吉が、自分の母、皐月の家に入ったと知って命を狙います。ところが、久吉を殺そうと思って竹槍(たけやり)で刺した相手は皐月でした。
 「光秀は出の時点ですでに討死の覚悟をしています。だが、負けたとわかっても久吉に一矢を報いたいという強い気持ちがある。そして、久吉だと思って近寄り、竹槍で見事しとめたと思ったら、それが母親だった…。刺したのが母の皐月と知って動転します」

 光秀の心中、察するに余りあるところです。
 「そのときに、光秀は顔を回します。そこはオーバーに見せたほうがいい。ただじっとしていても、お芝居としては面白くないですから。私は目を回しそうになったこともあります(笑)。武将としては久吉のほうが上手(うわて)で、光秀は彼の計略にまんまとひっかかっていた。すべてを逆手に取られたわけです。その悔しさは想像を絶するものだったろうと思います」

『通し狂言 小笠原騒動(おがさわらそうどう)』は、こんなお芝居

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平成23年4月新橋演舞場(撮影:松竹株式会社)

 主君尾田春長(織田信長)を討ったことで、息子の武智光秀(明智光秀)に憤っている母の皐月は、尼ヶ崎の庵室に引きこもっています。案じた光秀の妻、操は、息子の十次郎とその許嫁の初菊を連れて庵室を訪れていますが、実は十次郎は初陣の許しを願いに来たのでした。初陣とはいえ、春長の家臣真柴久吉(羽柴秀吉)と父光秀との合戦ゆえ、十次郎は討死を覚悟、初菊がすがっても戦の支度を促すばかり。祝言と出陣の盃は別れの盃、残された3人は泣き叫びます。
 夜が更けて竹藪から現れたのは、久吉を追ってきた光秀。久吉を討たんと障子越しに竹槍で突く光秀、しかし、討ったのが母の皐月と知り呆然となります。それでも、春長を討ったのは天下のためと声を荒げる光秀ですが、久吉の家臣正清(加藤清正)により手負いとなった十次郎が駆けつけ、父に急ぎ本国へ帰るよう気遣いを見せながら息絶えてしまい、母も死んでしまっては、さすがに涙がはらはらとこぼれます。
 そのとき聞こえた遠寄せ、見回せば四方に久吉の軍勢。勢い込んで駈け出そうとする光秀の前に現れたのは…。

※(  )内は史実の人名

齢を重ねてようやくできる役

 十次郎も戦場で手負いとなって戻り、光秀の前で皐月と共に息を引き取ります。二人の最期を目にしてさしもの光秀も大泣きします。
 「義太夫に乗ってのいわゆる“大落とし”ですが、これが、どうにもならないぐらい難しい。義太夫さんが精一杯やったら、もうすることがないんです。死に行くおっかさんを見て十次郎を見て、あの長丁場をただただ泣き上げるだけです。正直なところ、心をそこまで持っていくのが大変です」

 團十郎さんは海老蔵時代の26歳で光秀を初演されています(昭和47年11月歌舞伎座)。
 「初演のときは時間が余ってしようがなかったのですが、年齢と共に自分の体内時計がゆっくりになり、できるようになりました。これは後輩にも教えようのないところです。ある程度の年齢になることと上演回数を重ねることが、こうした役には大切なのかと思います」

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