歌舞伎いろは

【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。



もっと知りたい!右近さんのこと


思い出深い明治座で

市川右近
初代 市川右近
(いちかわ うこん)

生まれ
昭和38年11月26日生まれ。

家族
父は日本舞踊の飛鳥流宗家家元、飛鳥峯王。

略歴
昭和47年6月南座『大岡政談天一坊』一子忠右衛門で本名で初舞台。
昭和50年に三代目市川猿之助(現・猿翁)の部屋子となり、同年1月大阪・新歌舞伎座、同年7月歌舞伎座の『二人三番叟』附千歳で初代市川右近を名のり部屋子披露。

受賞
平成元年松尾芸能賞新人賞ほか受賞多数。

 明治座は澤瀉屋さん(二代目猿翁)が、数々の復活狂言を手掛けられた劇場ですね。
 「懐かしいですよ。以前の明治座は木造の匂いの残る劇場で、芝居小屋の匂いがありましたね。僕はまだ大阪に住んでいる頃に『加賀見山再岩藤(かがみやまごにちのいわふじ)』(昭和49年3月)の子役、志賀市で出演しています。東京に出てきたのが昭和51(1976)年4月ですから、そこからはほとんど明治座の“三代目市川猿之助”公演に参加しています」

 『伊達の十役』(昭和54年4月)をはじめとして<三代猿之助四十八撰>の作品が、次から次へとここ明治座から世に送られました。
 「4月の公演が多かったから、毎年のように3月に稽古をしていました。明治座の近くにあった浜町会館(浜町区民館)で朝から晩までの稽古が10日間ぐらい続きました。よく夜中になっていましたね。“ああしよう、こうしよう”と相談し合いながら猿之助歌舞伎の復活通し狂言がつくられていく過程を、間近に見させていただきました」

 右近さんご自身の思い出もおありでしょう。
 「子役から中子役になり、やがて大人の役を演じるようになり、明治座での勉強公演では大役も経験させていただきました。学生時代は、友達に本公演をこっそり後ろの客席で見せ、“僕はあの役をやるんだ”と言って勉強会(<待春会>)のチケットを買ってもらったりもしていました」

8年ぶりに師匠と舞台に

 今年は師匠である三代目猿之助さんが6、7月に新橋演舞場で二代目猿翁をご襲名され、約8年ぶりに舞台にも立たれました。
 「舞台でご一緒してすごいオーラだなと思いました。これぞ三代目市川猿之助、みたいな感じでしたよね。『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の最後の見得なんてすごかったし、千穐楽のカーテンコールも大変に盛り上がりました。来年正月にも大阪松竹座に出演されることが決まったので、うれしいです」

 劇場の盛り上がりもすごいものがありました。
 「師匠はいつも“お客様の目に触れて、お客様から気をいただく”とおっしゃっていましたが、現実に新橋演舞場公演では、そういう形になり、元気や勇気をもらっていらっしゃいました」

 幕が下りてからも、拍手が鳴りやみませんでした。
 「カーテンコールまでなさり、お客様がスタンディングオベーションをしてくださる…。なかにはお客様があまり立たれない日もあるんですが、そうするとすごくがっかりされる。“何でだろう”と。立って欲しいんです。お客様のスタンディングに一番元気をもらっていらっしゃるみたいでした」

 最後に一つプライベートのお話を。一昨年にご長男が誕生されました、どんな坊ちゃんですか。
 「今2歳半。かたくなな意志の強い子(笑)です。“ご飯いらない。グートットット(ヨーグルト出せ)”と言っています。“パパ、歌舞伎?”なんて、せりふの真似をしています。又平のせりふの真似もするかもしれませんね」

※澤瀉屋の「瀉」のつくりは正しくは"わかんむり"です。

ようこそ歌舞伎へ

バックナンバー