歌舞伎いろは

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御覧いただきたいのはここ!


平成18年10月歌舞伎座(C)松竹株式会社

勘平の気持ちでもっとも大切にしていること

 『仮名手本忠臣蔵』の勘平は、恋人のおかると会っていたために主、塩冶判官の大事に居合わせることができなかった。そのことから大きな悲劇に見舞われるのが、今度、演じられる五段目、六段目です。
 「本当にしんどい役です。どのような役でも、たいていはどこか“おいしい”ところがあるものですが、勘平はまったくぱあっとしたところがない。逆に言えば、楽にやってしまおうと思えば、いくらも楽にやれるんです。財布を見て、自分は舅を殺したのだと驚いて、あとはじっとしているだけですからね。気持ちがよそへ行っていればちっともしんどいことはない。でもその間、勘平の気持ちになっているからとても辛いんです」

 勘平のどのような気持ちを大事に演じられているのでしょうか。
 「とにかく亡君の仇討ちがしたい。そのためだけに勘平は生きていると私は考えています。色男で武士としてはちょっとだらしがない。それでもどうしても仇討ちはしたい。武士としてそれだけは持ち続けているのです。だから、おかるにとりあえず私の実家に行きましょうと言われ、のこのこついていく。はなから仇討ち参加を諦めていたら、おかるに止められても死んでいたかもしれません」

 それだけの気持ちを持ちながら、自ら腹を切ってしまうのはなぜでしょう。
 「仇討ちに加わるため必要だと言われてつくり出した金を、数右衛門に“不忠不義を働きしその方の金子、封のまま差し戻さるる”と突き返されたから。ここで勘平は生きる希望の一切を失ったのだと、私は考えています。だから、ここで死を決意しているのです」

 数右衛門のひと言が、切腹の理由だったのですね。
 「だから、この後、姑のおかやが二人侍に“これが舅を殺した”と訴えても、皆さんは言わないでくれという芝居をされますが、私はしません。勘平には言い訳しようという気力すらないのです。申し開きをするのは、数右衛門に“亡君御尊霊の御恥辱”と言われたから。亡君の恥辱になるのでなかったら、自分はどう思われてもいいんです」
 「よく、私が音羽屋(尾上菊五郎)さんの型でやっていると誤解されることがありますが、ここが根本的に違うところだと思います」


十三代目仁左衛門の型

『仮名手本忠臣蔵』五段目 六段目は、こんなお芝居
「五段目」

塩冶判官の旧臣早野勘平は、今は女房おかるの郷里で猟師の身ですが、山崎街道で塩冶浪人の千崎弥五郎に出会い、仇討ちの資金調達を約束します。同じ頃、おかるの父与市兵衛は、勘平の仕官の資金にと娘を一文字屋に身売りし、前金の五十両を懐に暗い家路を急いでいました。ところが、ひと休みしていたところを、山賊となった塩冶浪人斧定九郎に斬り殺され、財布を奪われてしまいます。そこへ走ってきた猪、続いて銃声が鳴り、定九郎は倒れました。
獲物を追って現れたのは勘平。手探りで近づくと、撃ったのが猪ではなく人と知って気が動転、薬を探すうち死体の懐の金に気づくと、それを抜き取って逃げました。

「六段目」

翌朝、勘平の家には、おかるを引き取りに来た一文字屋お才と判人源六がいました。お才の話から、昨夜、自分が撃ったのが舅与市兵衛だと思い込む勘平。おかるを見送ったところへ与市兵衛の死骸が運び込まれ、おかるの母おかやは、うろたえる勘平を責め立てます。そこへ不破数右衛門と千崎弥五郎が現れ、不忠不義の金は受け取れないと、勘平から預かった五十両を突き返します。覚悟を決めた勘平は自ら腹を切りました。勘平の話を聞いて死骸を改めた弥五郎は真相を悟り、舅殺しの定九郎を殺した勘平は、敵討ちのお供をしたいと連判状に血判を押し、息絶えるのでした。

 勘平には、三代目菊五郎から続く音羽屋型をはじめ、上方にも成駒屋(中村鴈治郎)型など、いくつかのやり方がありますね。
 「私のはそのどれでもない。音羽屋さんのやり方だと誤解されるのは、着物を着替えるタイミングと、浅葱だからかもしれません。『五段目』の二つ玉の件も、音羽屋さんのは揚幕で一発、花道へ出て七三でもう一発打たれますが、私は揚幕の一発だけ。“二つ玉の強薬”とせりふにありますが、これは2個分の弾薬を込めた一撃という解釈です」
 「『六段目』で刀を出すのも、音羽屋さんは紋服に着替えるときに持ってこさせますが、私は後で自分で出します。ほかにも挙げればきりがないほど違うのです」


 何を元にされたのですか。
 「初役(昭和56年移動芸術祭)のときは、父(十三代目仁左衛門)から教わりました。ですから、父のやり方が元です。何度かやらせていただいているうちに、自分の考えを加えました。もちろん、部分的には音羽屋さんのも入っていますし、橘屋さん(十五代目市村羽左衛門)のも大阪のやり方も少し入っていますけれど、言うなら十三代目の型ということになるのでしょう」
 「“なんでもござりませぬ”の件も、父の解釈で私もその心を受け継いでいますが、そういうことも稽古のときに話すのではなく、父はたいてい役の気持ちがどうのとかいう話は、普段の食事のときに話してくれました」


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