歌舞伎いろは

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歌舞伎座「芸術祭十月大歌舞伎」『熊谷陣屋』
今度の舞台を楽しく見るために

ようこそ歌舞伎へ 八代目 中村芝翫

紀尾井町のおじさんの書抜きを元に

 ――『熊谷陣屋』は平成15(2003)年2月に新橋演舞場で初演されました。今回で5回目になります。

 現在は九世市川團十郎の「團十郎型」が主流ですが、成駒屋には五世歌右衛門の養父であり、「大芝翫」と呼ばれた四世芝翫の「芝翫型」がございます。私が演じるからには、ゆかりの型でと思いましたが、残念ながら我が家には型の詳細が残っておりません。

 紀尾井町のおじさん(二世尾上松緑)が、五世歌右衛門の弟子だった中村竹三郎さんに教わり、昭和30(1955)年3月に歌舞伎座で勤められたのが、「芝翫型」での久々の舞台でした。そこで、私の初演では、今の松緑さんにお願いして、紀尾井町のおじさんが型について細かく書き込みを入れられた書抜き(演じる役のせりふを抜書きした上演台本)を拝借しました。

 ――その本を手がかりにされたのですね。

 おじさんは大変に几帳面な方で、團十郎型はペン、芝翫型は鉛筆で書抜きに細かな動きを書いておられました。私は過去に團十郎型で演じた経験もなく、まったくの初役でしたので、熊谷直実を当り役とされる吉右衛門のお兄さんに、「どうしたらいいでしょう」とご相談をいたしました。

 お兄さんは「見てやろう」とおっしゃって一緒に書抜きをご覧くださり、ご自分で身体を動かしながら、「こんなおかしな格好はしないだろうから、こうだろう」と、熊谷が平敦盛を討った経緯を藤の方と相模に語る「物語」の動きを、書抜きを元にしてつくってくださいました。

一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)『熊谷陣屋』(くまがいじんや)

 一ノ谷の合戦で敦盛の首を討って帰還した熊谷次郎直実。息子小次郎の初陣が心配で陣屋に来ていた妻の相模を叱るところ、我が子の敵と熊谷に懐剣を振りかざしたのは藤の方。敦盛が母を頼むと熊谷にひと言残して討たれたと聞き、藤の方は青葉の笛を奏でて我が子を偲びました。

 義経が陣屋に現れ、熊谷は庭にあった制札を引き抜いて、ここに書いてあるとおり敦盛の首を討ったのでご実検をと差し出します。その首を見て驚いたのは相模。それは小次郎の首でした。実は敦盛は後白河法皇の落胤で、義経に、我が心を察してよく討った、名残を惜しめと言われた熊谷は、相模にそっと首を渡しました。

 その様子を鎌倉へ注進すると駈け出したのが梶原景高。それをとどめた石屋の弥陀六へ、義経が宗清待てと声をかけます。幼き日の恩人と見破った義経の眼力に恐れ入ったと、平家方の人間であることを明かした宗清に、義経は鎧櫃(よろいびつ)を持たせます。中を見て藤の方はびっくり、討たれたはずの敦盛が…。そして、戦仕度を整えた熊谷は義経に切り髪を差し出して暇乞いをし、鎧兜を脱ぐと僧の姿となって相模とともに陣屋を立ち去るのでした。

芝翫が芝翫型の熊谷を歌舞伎座で見せるのは初めて

 ――團十郎型との大きな違いはどこでしょう。

 芝翫型は團十郎型よりも原作の浄瑠璃(現在の人形浄瑠璃)に近いのが特徴です。衣裳は赤地錦織物の裃(かみしも)で、黒本天の着付、顔には隈を取ります。

 熊谷のせりふに「戦半ばに願いの通り、御暇をば賜りし」とあるように、扱われているのは源氏と平家の争いの半ばでの出来事です。熊谷はいわば前線のベースキャンプのリーダーで、まだ若いはずです。その人がいろいろなことがあって身を引き、仏門に入る。相模とも若い夫婦なので、その機微が出ると思います。

 ――演出としても大きく異なるところがありますね。

 「物語」で熊谷は、陣屋の下手(しもて)の桜の前に立ててある制札を引き抜いて見得をします。芝翫型は人形浄瑠璃と同じように制札の軸を下に突きますが、團十郎型は制札を逆さにします。歌舞伎座の階(階段)の三段の上手(かみて)には、諸先輩が熊谷の制札の見得をしたときに制札を突いた跡が残っています。

 橋之助最後の舞台になった「八月納涼歌舞伎」で、私は『嫗山姥(こもちやまんば)』の煙草屋源七に出演しており、階の痕跡を目にし、「10月にはここに新しい跡を付けられるのか」と思いました。芝翫型は制札を逆に突きますから、新しい跡になるのかなと。芝翫が芝翫型の『熊谷陣屋』を歌舞伎座で上演するのは初めてです。ゆくゆくは前段の「陣門・組打」も演じたいです。

ようこそ歌舞伎へ

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