歌舞伎いろは

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歌舞伎座「芸術祭十月大歌舞伎」『熊谷陣屋』
知っているともっと面白くなる!

ようこそ歌舞伎へ 八代目 中村芝翫

芝翫型は引っ張りの見得で終わる

 ――『熊谷陣屋』での熊谷の夫婦の思いがほかに見える場面はありますか。

 我が手で命を奪った敦盛、実は我が子の小次郎である首を藤の方に見せるように、熊谷が相模に命じる「コリャ女房、敦盛卿のおん首、藤の方へお目にかけよ」のところで芝翫型は、熊谷が首桶から首を出して抱え、三段(階段)のところで熊谷が相模に手渡しします。ここにも愛する我が子を失った夫婦の思いが出ます。

 ――幕切れも團十郎型とは異なりますね。

 團十郎型は幕が閉じた後の幕外で、出家した熊谷が花道を一人で入りますが、芝翫型は原作のように熊谷と妻の相模が本舞台、屋体の中央に源義経、下に弥陀六という引っ張りの見得で幕になります。

 熊谷は仏門に入り、僧形になりますが、芝翫型は團十郎型のように髪をそらない有髪(うはつ)で、衣裳は白の綸子(りんず)です。ですが、紀尾井町のおじさんは、「白のあんな格好で有髪にしたら、哀れがない。蛸入道にしか見えないよ」と、生前おっしゃっていました。結局、初演の際は、舞台稽古と初日だけ有髪の白綸子で勤め、あとは有髪で衣裳は團十郎型の黒の僧衣にいたしました。

 ――その後、『熊谷陣屋』は京都南座(平成16年5月)、博多座(同18年6月)、大阪の平成中村座(同22年10月)でも上演されました。東京では初演以来です。

 中村座のときは勘三郎の兄に、「團十郎型の幕外をつけたら」と言われたので、父(七世芝翫)に相談して了解を得て幕外をつけました。幕外はなるほど、勤めていて大変に気持ちがいいものだな、よくお考えになったなと思いました。しかし今回は、芝翫を襲名したのですから有髪の僧で、引っ張りの見得で終わる芝翫型のとおりに勤めます。

歌舞伎座「芸術祭十月大歌舞伎」

平成28年10月2日(日)~26日(水)

一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんき 『熊谷陣屋』くまがいじんや

熊谷直実 橋之助改め中村  芝 翫
相模 中村  魁 春
藤の方 尾上  菊之助
亀井六郎 中村  歌 昇
片岡八郎 尾上  右 近
伊勢三郎 宗生改め中村  福之助
駿河次郎 宜生改め中村  歌之助
梶原平次景高 中村  吉之丞
堤軍次 国生改め中村  橋之助
白毫弥陀六 中村  歌 六
源義経 中村  吉右衛門

男のなかの男、八代目芝翫が追いかけていく役

 ――10月の昼の部では『幡随長兵衛』の長兵衛をなさいます。

 こちらは4回目です。初演(平成9年8月歌舞伎座)では、幸四郎のお兄さんに教えていただきました。子どもの頃の思い出がある狂言です。

 小学校3年のとき、母に手を引かれ、歌舞伎座で白鸚のおじさんの長兵衛を拝見しました(昭和49年9月)。客席からおじさんが長兵衛で出られたとき、母に「幸二(本名)も、歌舞伎座で長兵衛のできるような役者にならなくてはだめよ」と真剣な表情で言われました。初演で私が長兵衛で登場したときに、客席の後方にいた母と目が合い、「やっと思いがかないました」と心の中で声をかけました。そんなこともあって襲名披露狂言として勤めます。

 ――子どもの頃からの夢で、襲名でも演じられるという思い入れの強いお役ですね。

 長兵衛は大好きな役です。湯殿で水野十郎左衛門に討たれる悲しい結末ではありますが、私は八代目芝翫として長兵衛に代表されるような荒削りな、男の中の男の役を、これから勤めていきたいと思っております。

ようこそ歌舞伎へ

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