『吾妻焼釉下彩獅子文タイル』(株)INAXライブミュージアム蔵

一枚のタイルの物語

 古くはエジプト、メソポタミアの建造物にもその存在が確認されている文様。
 人類が歩んで来た長い歴史の中で、文様はそれ自体が生命を持つがごとく、長く茎葉を伸ばし世界中に広がってきました。その文様の歴史に欠かせないのがタイルを中心とした陶板です。

 INAXのタイル博物館に所蔵されている貴重な作品の中から、今回ご紹介するのは、『吾妻焼釉下彩獅子文タイル』です。

 この1枚には、日本の絵画の伝統を新しい技術でやきものに注ぎ込もうとした外国人の努力と理想が詰め込まれています。

 明治元年(1868年)5月長崎に来着以来、日本の近代窯業育ての親といわれるドイツ人化学者のゴットフリード・ワグネル博士は、明治23年に東京の深川に設立した旭焼き製造場の設立目的をこのように定めました。

 「日本の絵画の筆力を失うことなく、陶器に完全に模写し永久に保存すること。そしてこれを外国に輸出すること」(昭和5年窯業技術官会議講演録より意訳)

 幕末、明治維新以後の産業の近代化に、欧米先進諸国からの専門家の果たした役割は大きく、特に食器や花器といった日用陶磁器ばかりでなく電子関連素材や建築素材といったセラミックス産業におけるワグネル博士の功績ははかり知れません。中でも、実業教育への功労は特に大きく、東京職工学校(現東京工業大学)の設立とセラミックス分野における学生への指導は、現在の世界をリードする日本のセラミックス素材産業の礎となっているといっても過言ではありません。

 ワグネル博士は、美(美術的視野)・用(工業生産)・学(学術的発展)の精神を学生たちに教えるとともに、自ら明治18年に吾妻焼を創業しました。

 日本の伝統的な美術や工芸に深い理解を示し、むやみに西洋を真似ることを戒めていた彼は、日本の伝統を新しい技術で生かすやきものとしてタイルを選びました。そして日本画の技巧を伝統の釉上彩でなく、ヨーロッパで最新であった「釉下彩」の手法を用いて施したのです。

 吾妻焼きは明治20年に旭焼きと改称し、同23年に製造場が創業しました。
 旭焼きは水圧機を用いた成形方法など新しい技法を取り入れ、外国品以上の精巧なタイルを生産しました。そして各種の展覧会でしばしば入賞し、高官の邸宅を飾り宮内庁にも献納されましたが、明治29年ワグネル博士の死後3年ほどして経営難のために閉鎖されてしまいます。

 手間隙をかけてでも日本の芸術をやきものとして半永久的な耐久性を与えたワグネル博士の取り組みに感服するとともに、「ものづくり」への取り組み姿勢について、改めて考えさせられる一枚です。

文:愛知県常滑市INAX ライブミュージアムものづくり工房 後藤泰男

写真協力・(株)伝統文化放送

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