『助六由縁江戸桜』の揚巻の打掛。「人日の節句」がモチーフ

歌舞伎衣裳に読み解く日本人の暮らし

 歌舞伎衣裳の中でも絢爛豪華で知られるのが『助六由縁江戸桜』の揚巻の衣裳ではないでしょうか。歌舞伎を演じる女方の中でも最高峰の俳優が演じる吉原一の花魁、揚巻が纏う打掛には日本の四季の花々、そして無病息災を願う節句の文様が施されています。それは古から現代に続く私たち日本人の暮らしぶりを伝えます。
 現在でも雛祭りや端午の節句として残っている節句は唐時代の中国にルーツを持ちます。奇数の重なる日に身の穢れを祓う習慣は日本に伝わると、貴族の宮中行事として定着しました。

 では揚巻の衣裳から、今の生活にも結びつく節句を読み解いてみましょう。
 芝居冒頭、大勢の若い衆や禿を伴って登場する揚巻が纏うのは金銀の御幣(ごへい)をあしらった打掛です。御幣とは、割いた麻や畳んで切った紙を細長い木に挟んで垂らした捧物です。この打掛は1年の最初の節句、つまり正月の最後の日にあたる1月7日「人日の節句」をモチーフにしています。よく見ると門松に橙とゆずり葉、伊勢海老があしらわれた豪華なお正月飾りそのものです。

 揚巻がこの黒い打掛を脱ぐと鮮やかな緋色の打掛が表れます。
 こちらは3月3日の「上巳(じょうし)の節句」をモチーフにした文様で、火焔太鼓や幔幕(まんまく)は宮中での上巳の節句の行事を表しています。

 古代中国では三月の最初の巳の日(みのひ)に川で身を清め、不浄を祓う習慣がありました。巳の日がのちに三月三日に固定され、その習慣が平安時代には日本にも取り入れ、「曲水の宴」という水を祀る宮中の行事になりました。また、田植えの始まるころにあたるこの日には、紙で作った人形で身体を撫で、穢れを落とし海や川に流す「流し雛」も日本各地で行われました。今も残るこの習慣が現在の雛祭りにつながると言われています。

 花魁道中の正装である、前にだらりと垂らした大きな帯を「俎板帯(まないたおび)」と呼びます。揚巻の帯に描かれているのは続く5月5日「端午の節句」のモチーフである鯉の滝登りです。現在でも節句になると飾られる鯉のぼりは「龍門を登って鯉が龍になった」という中国の故事にあやかり、男の子の成長や立身出世を願うものです。

 続いて一旦部屋に入った後、客人を見送りに出た揚巻は7月7日「七夕の節句」をモチーフにした短冊模様の俎板帯で登場します。七夕が近づいてくると短冊に願い事を書き、笹竹に結びつけて軒先などに飾ります。この習慣が庶民の間に普及したのは江戸時代で、手習いが上手くなりますようにとの願いから寺子屋で行なわれたと言われています。

 最後は菊の花づくしの打掛を読み解いてみましょう。この掛軸は揚巻の朋輩の白玉の衣裳で、菊は9月9日の「重陽(ちょうよう)の節句」をモチーフとした文様です。古代中国で菊の花は邪気を祓い長生きする効能があると信じられ、特に重陽の節句には菊の花を浮かべた菊酒を飲むのが習わしでした。その習わしが飛鳥時代の日本に伝わり、宮中で菊を鑑賞する宴が行なわれていました。『紫式部日記』には、9月8日の夜に綿を菊の花にかぶせ、9日の朝、菊の香りがついた布で肌をぬぐうと長寿を保つことができるという風習が書かれています。

 歌舞伎の衣裳は、自然とともに生き、季節の変化を大切にしていた日本人の心を縫い取る文様で彩られています。それは単にデザインとして秀でているだけではなく、日本人古来の暮らしを伝える絵巻のような役割を果たしてもいます。


揚巻の打掛の文様。
「上巳の節句」がモチーフ


揚巻の俎板帯の文様。
「端午の節句」がモチーフ


揚巻の俎板帯の文様。
「七夕の節句」がモチーフ


白玉の打掛の文様。
「重陽の節句」がモチーフ
※上写真4点:撮影 諸角潤


歌舞伎文様考

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