『志野釉菱重ね文(しのゆうひしかさねもん)敷瓦』(株)INAXライブミュージアム蔵

一枚のタイルの物語『志野釉菱重ね文(しのゆうひしかさねもん)敷瓦』

 古くはエジプト、メソポタミアの建造物にもその存在が確認されている文様。
 人類が歩んで来た長い歴史の中で、文様はそれ自体が生命を持つがごとく、長く茎葉を伸ばし世界中に広がってきました。その文様の歴史に欠かせないのがタイルを中心とした陶板です。

 INAXのタイル博物館に所蔵されている貴重な作品の中から、今回ご紹介するのは『志野釉菱重ね文(しのゆうひしかさねもん)敷瓦』です。

 瓦は飛鳥時代に仏教寺院建築とともに大陸から伝来しました。以来、寺院等の床材として使われていた敷瓦は、16世紀頃から茶の湯の世界でも使用され始めます。桃山時代から江戸時代は製陶技術が発展し、観賞価値の高い陶板がつくられるようになります。それらの陶板は茶人に愛好され、茶会の際の風炉の敷板に敷瓦が使われたようです。特に、黄瀬戸、志野、織部といった茶陶を代表する施釉方法、布目、レリーフによる加飾などを施した敷瓦には、通常の茶陶器と比べても遜色のない高度な技法が用いられました。

 ここに紹介する志野釉菱重ね文敷瓦もまた、日本の代表的な幾何学文様である入子菱(いれこびし)が掘り込まれた土に、美濃地方で桃山時代に生まれた志野釉が施されたものです。志野釉とは美濃の陶工たちが中国の白磁を写そうとして生まれたものといわれています。14世紀ごろ中国の景徳鎮で生まれた白い磁器は、東西交流により世界中の人々を魅了しました。日本でも17世紀始めに有田で白磁が生まれるまで中国製の磁器は大量に輸入され、多くの陶工たちが白い磁器を作ろうと試みたようです。桃山時代、美濃地方の陶工たちは白い陶器に白い釉薬をかけたやきものを作り出したわけですが、その白さと硬さは中国製の磁器には遠く及ばなかったようです。しかしながら、この白を千利休や古田織部といった茶人が受け止めたのです。茶人たちは、この白い志野釉に造形的な応用を施してさまざまな茶陶器を創り出したようです。この敷瓦もまた、造形的な応用をされた志野釉の茶陶器といえます。

 INAXの「ものづくり工房」では、過去の優れた作品を模写して新しい技術へ応用する目的で、この敷瓦を再現しようと試みています。まずとりかかったのは釉薬の調合でした。ところが、ただ釉薬を調合して色を合わせただけではこの雰囲気を再現することができなかったのです。試作を重ねるうち、独特の色は土の色合いや入子菱文様の掘り込み深さと角度、釉薬の量や粒度といった様々な要因が絡み合っていることに気づいたのです。この再現を始めて数ヶ月が経ちますが、いまだ満足のいく再現を求めて試行錯誤は続いています。改めて当時の技術の奥深さと窯業技術の奥深さを痛感しています。

文:愛知県常滑市INAXライブミュージアムものづくり工房後藤泰男

写真協力・(株)伝統文化放送、松竹衣裳(株)

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