歌舞伎いろは

【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。



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 『髪結新三』や『魚屋宗五郎』のように、世話物の中でもさらに写実味の強い“生世話(きぜわ)”と呼ばれるジャンルの役を演じるにあたっては、江戸の匂いを出すことに留意すると、菊五郎さんは言います。
 「若いうちはそれほど考えませんでしたが、先輩の芝居を見たり、江戸落語を聞いたりして、江戸っ子はこんなものなのかなと想像をめぐらします。新三などは罪を犯して捕まり、腕に入れ墨されているのに、それすら自慢にしている。『上総無宿の入れ墨新三だ』なんてね。牢屋に入っていればそれだけ箔が付く」

 「新三のせりふに『焙烙(ほうろく)を剃る時分から』というのがあります。子供のときから、焙烙(土鍋)の丸いところを使って剃刀で顔を剃る修業をしてきた、という意味なんですよ。そういうことも次第にわかってきました」

 “時代に世話あり、世話に時代あり”といわれるように、世話狂言でも、時代物的なせりふ回しが入ることがあります。それが芝居にメリハリを付ける――。『髪結新三』の中にもそんなせりふが多く出てきます。
 「さらさら言ってしまうと印象に残らないでしょう。だから“時代に”せりふを言うんです。名せりふに選んだ永代橋の『よく聞けよ』からがそうです」

 新橋演舞場11月の「吉例顔見世大歌舞伎」は、菊五郎さんにとり、父の梅幸と、立役の指導を受けた先輩、松緑の追善興行です。菊五郎さんの祖父である明治、大正、昭和を代表する名優、六代目菊五郎が昭和24年に没して後、教えを受けた俳優により、その名を冠した「尾上菊五郎劇団」が結成されました。その「菊五郎劇団」の中心となったのが、女方の梅幸と立役の松緑の二人でした。

 「二人とも当時三十代でしょ。その年齢で劇団を持ち、音楽部までつくったんです。それが、いまだに続いている。だから私の代でつぶしたくはないし、つぶしてはいけないと思います」
 と、菊五郎さんは強い決意をのぞかせます。

(平成22年5月大阪松竹座 (C)松竹株式会社)

コレ能く(よく)聞けよ。普段は帳場を廻りの髪結、いわば得意の事だから、うぬの様な間抜野郎にも、ヤレ忠七さんとか番頭さんだとか、上手を使って出入りをするも、一銭職と昔から下がった稼業の世渡りとニコニコ笑った大黒の、口をすぼめた傘(からかさ)も、並んでさして来たからは、相合傘の五分と五分、轆轤(ろくろ)のような首をして、お熊が待っていようと思い、雨の由縁(ゆかり)にしっぽりと、濡るる心で帰るのを、そっちが娘にふりつけられはじきにされた、悔しんぼに、柄のねえ処へ柄をすげて、油紙に火のつくように、べらべら御託をぬかしゃァがると、こっちも男の意地づくに、覚えはねえと、白張りの、しらを切ったる番傘で、うぬがかぼそいその体へ、べったり印を付けてやらァ。

 六代目菊五郎は世話物を得意としました。今月上演の『魚屋宗五郎』も『髪結新三』も六代目の得意演目で、二代目松緑が引き継いだもの。特に、宗五郎はその松緑から菊五郎さんが直接教わりました。菊五郎さんはほかに松緑から『四千両』の富蔵、『忠臣蔵 五、六段目』の勘平などの指導を受けています。また、父の梅幸からは、これも六代目が得意とした舞踊の『鏡獅子』『藤娘』『京鹿子娘道成寺』の教えを受けています。

 「父は芝居では、相手役の女方の立場から、立役に対するアドバイスをしてくれました。『宗五郎を僕はやったことがないけれど、豊さん(二代目松緑)はこうやっていた。それはこういう気持ちじゃないかな』と。舞踊の『吉野山』だと、静御前から見た忠信についてです。『お前のはちょっと違うな。豊さんはああやっていたよ』と言ってくれてね。そういう面が非常にありがたかったですね」
 と、二人の先輩への感謝の念を語ってくれました。

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