歌舞伎いろは

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もっと知りたい! 海老蔵さんのこと


成田屋十八番ではなく“歌舞伎”十八番

市川海老蔵さんをもっと知りたい!
市川海老蔵
十一代目 市川海老蔵
          (いちかわ えびぞう)

生まれ
昭和52年12月6日、東京生まれ。

家族
父は十二代目市川團十郎。

初舞台
昭和58年5月歌舞伎座『源氏物語』春宮で初お目見得。同60年5月歌舞伎座『外郎売(ういろううり)』貴甘坊で、七代目市川新之助を名のり初舞台。

襲名
平成16年5月歌舞伎座『暫(しばらく)』鎌倉権五郎、『伊勢音頭恋寝刃』料理人喜助、『勧進帳』富樫左衛門、『新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)』磯部主計之助ほかで十一代目市川海老蔵を襲名。同年10月、パリ国立シャイヨー劇場でも襲名披露。

 海老蔵さんが歌舞伎十八番に強いこだわりをもつのは、市川家の人間だから当然とも思えます。
 「歌舞伎十八番は市川家の芸の集大成。にもかかわらず“成田屋”十八番ではなく“歌舞伎”とついているからには、誰もがやれて、かつ素晴らしいものでなければならないと僕は思うのです。実際、先人はそういう仕事をしてきました。『勧進帳』はその最たるものでしょう。つくりあげた七世團十郎は本当にすごい。歌舞伎十八番に携わろうというのなら、そこまで視野を広げるのでなければやらないほうがいい――。そう思うくらいです」

 海老蔵さんがそこまで思いを強くするには、何かきっかけがあったのでしょうか。
 「自分自身でも、と強く思うようになったのは、『外郎売(ういろううり)』の影響が大きいかもしれません。祖父(十一世團十郎)が九世海老蔵襲名の際に復活させた芝居(1940年5月歌舞伎座『ういらう』)ですが、このときは所作仕立てで、眼目の“言立て”がなかった。それを父が、野口達二さんに脚本を書いていただき、今の形に変えたのが昭和55(1980)年。それから、20年ほどで見取狂言として成立させてしまったわけです」

先人のスケールを目指して

 誰もがやれる素晴らしい作品をつくることは、歌舞伎のレパートリーを増やす作業ともいえます。具体的にはどうされるのでしょう。
 「シンプルな作品にすることではないでしょうか。今は頭で考えることが先に立ち、芝居をつくるにしても筋を追い、理屈を合わせようとする。でも、そうやってできた芝居は果たして面白いでしょうか」
 「昔は、たとえば俺が七三(花道の舞台寄りの定位置)でこう決めたときの形はすごくいいだろう、それを見せる芝居をつくろうよ――というようなことから生まれた芝居がいっぱいあった。それらは、つじつま合わせをして筋の通った芝居より、ずっと歌舞伎っぽい。僕はそう感じることが少なくないんです」


 とはいえ、現代人が理屈を忘れてやるのは無理とも、海老蔵さんは言います。
 「ならばとことん理屈を合わせて筋を追ったものを一度つくり、皆で額を寄せ合わせてひっくり返すしかないのではないか。その結果、よくわからないけれどすごいね――というものにできたら最高なんですけれどね」

 今後、そのような方法で復活する歌舞伎十八番が出てくるかもしれません。
 「今、景清の隈取に青(青黛:せいたい)が使われていることが気になっています。景清は『景清』だけでなく、『鎌髭(かまひげ)』『解脱(げだつ)』『関羽(かんう)』に出てきますが、歌舞伎の化粧で、青は悪の色。なぜ完全な正義ではない人物が、勧善懲悪であるはずの歌舞伎十八番の主人公なのだろうか。それをよくよく考えることが、新しい歌舞伎を模索する材料になるのではないかと思っています」

ようこそ歌舞伎へ

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