歌舞伎いろは

【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。



もっともっと楽しんでいただくために


我が子への情と、弟桜丸への気持ちと

 松王丸の菅丞相への忠義と共に柱をなすのが、我が子小太郎への情ですね。
 「今度、工夫をしようと思っている箇所があります。小太郎が松王丸と千代の子であると源蔵夫婦にもわかった後に、小太郎が首を討たれるとき、未練な死に方をしただろうと、松王丸が源蔵に尋ねる。すると源蔵は、菅秀才のお身代りと聞かせると小太郎は、“にっこり笑うて”首を差しのべたと話します。そこでは、松王丸の主君も忠心も忘れて子どもが可愛いという、親子の絆を出そうと思います」

 ここでも、幸四郎さんの工夫が形やせりふに表れるのですね。
 「松王丸は白太夫という人の三つ子に生まれ、梅王丸、桜丸という二人の兄弟がいます。桜丸は既に切腹して世を去っています。小太郎が立派な最期だったと聞かされた松王丸は、非業の死を遂げた弟桜丸を思い出す――。それにつけても“思い出すは桜丸”と浄瑠璃が取り、松王丸は“桜丸が不愍(ふびん)でござる”と嘆き、“源蔵どの御免下され”と泣きます。この流れは変わりません」
 「そこで今回は、松王丸が最期の様子を聞かされて、一層小太郎が愛しく悲しくなる。小太郎を褒める“孝行者、手柄者と思うにつけ”の後に、松王丸が松の枝に付けて門口から投げ込んだ、菅丞相の<梅は飛び桜は枯るる世の中に、何とて松のつれなかるらん>の歌をしたためた短冊を手に取り、書かれた歌を口ずさんでみようと思っています」


歌舞伎の型のなかで一人の人間が泣いている

歌舞伎座 柿葺落五月大歌舞伎

平成25年5月3日(金・祝)~
29日(水)
公演情報

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平成22年4月歌舞伎座
(C)松竹株式会社

第一部
『菅原伝授手習鑑』「寺子屋」

松王丸 幸四郎
武部源蔵 三津五郎
戸浪 福 助
涎くり与太郎 亀 寿
百姓吾作 由次郎
園生の前 東 蔵
春藤玄蕃 彦三郎
千代 魁 春

 松王丸の心中で弟の桜丸、息子の小太郎、二人への思いが入り混じる場面ですね。
 「“梅は飛び、桜は枯るる世の中に”で“トオーン”と弾き、“御恩も送らず、先立ちし”のせりふから、桜丸に気持ちが行くようにしようと思います。いつもは、いきなり小太郎から桜丸に飛んでいる。そこに行く前に松王丸の心理として“ああ、そういえば、梅は飛び(行方しれず)、桜は枯れて(死んで)しまったな”と思いを馳せる…」
 「“梅は飛び、桜は枯るる”で思い出し、“倅が事を思うにつけ、桜丸が不愍でござる”で“ツン”と弾き、倅、桜丸、倅、桜丸…、で、“源蔵どの御免下され”と大泣きする。桜丸と自分の子を重ね合わせて泣くという肚(はら)です」


 心の動きを明確に表現されようとなさっている。
 「泣いている型ではなく、松王丸という一人の男が泣いている。自分の子と、自分のように御恩返しができなかった弟の桜丸、二人を思ううちに泣けてしまったという演じ方を工夫しているところです。息子の健気さと桜丸の無念さ。息子と弟で悲しみが倍になり、大の男が泣いてしまう」

 歌舞伎として演じながら、現代人に通じる心理を表現されるというのは…。
 「江戸に生まれた荒唐無稽な荒事歌舞伎に、明治期、九世團十郎によって写実味(活歴など)が加わり、さらにそれに祖父の初世吉右衛門、七世幸四郎や尊敬する六世尾上菊五郎のおじさんたちが、心理描写を取り入れました。せりふの裏には肚があって、感情がある。心理描写をお芝居にする、ドラマにする…。僕がいつも心しているのは、歌舞伎劇としてのそれです」
 「『寺子屋』の場合も、あくまでも歌舞伎劇としての手法で演じられなければならないと思っています。その中に写実性があり心理描写がある。それらをさらに消化して“歌舞伎という演劇にする”、それがこれからの歌舞伎の新しい可能性、お客様の心を動かす突破口、きっかけになってくれるような気がするんです」


ようこそ歌舞伎へ

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