歌舞伎いろは

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思い出深い初めての『瞼の母』出演

 『瞼の母』の忠太郎は3度目でいらっしゃいますが、その前に歌舞伎座(平成10年4月)で半次郎を勤められました。そのときの忠太郎は十八世中村勘三郎さんでした。
 「書き物(新歌舞伎)で、せりふが多く、芝居のしどころもある半次郎のような大きな役を勤めるのは、このときが初めてでした。勘三郎のおにいさんと金五郎役の(坂東)彌十郎のおにいさんに、毎日駄目だしをされ、公演後の食事の際にまで、ご注意をいただきました。演技にゴーサインが出たのは中日を過ぎてからでした」
 「勘三郎のおにいさんは、芝居のときに、ちょっとでも僕が目を見なかったりすると、“なんで、お前のことを言っているのに、俺の目を見ないんだ”とおっしゃる。僕は、次のせりふのことを考えるだけで頭がいっぱいで、素の中村獅童に戻ってしまっている…。おにいさんには、“半次郎になってくれよ”と言われました」

 忠太郎の初演は平成22(2010)年2月の博多座でした。勘三郎さんに教わられたそうですね。
 「勘三郎のおにいさんはもちろん、叔父の(萬屋)錦之介の舞台と映画、両方の当り役でもあります。だからずっと見ていた芝居で、格好いいな、いつかはやりたいと思っておりました。博多座では、やっとできるんだとうれしかったですね」

“この役は獅童にあっているかもしれない”

『瞼の母』は、こんな作品

江戸時代末期のある春の日。博徒に追われる身の番場の忠太郎は、一緒に逃げようと弟分の半次郎の家へやって来ますが、半次郎はいないと母娘に追い返されます。息子を必死に守ろうとする母おむらの姿に、5歳で母に生き別れて以来、母親への強い思慕の念を抱く忠太郎は心を打たれ、半次郎に堅気になるよう言い残して立ち去りました。そこへ現れた博徒たちに半次郎が立ち向かおうとするところ、戻ってきた忠太郎が二人を斬り捨て、斬ったのは自分だと書き残そうとします。字の書けない忠太郎は、おむらに手伝ってもらいつつ筆をとるうち、いっそう母への思いを強くするのでした。
江戸で母を探して1年余り、忠太郎は、助けた夜鷹から母らしき人の話を聞き出し、料理茶屋の水熊の女将、おはまを訪ねます。後家となり女手ひとつでお登世を育てているおはまは、忠太郎の身の上話を聞いて息子と確信しても、お登世かわいさに風体の悪い忠太郎をはねつけます。悲しみにくれてその場を去る忠太郎。しかし、兄だと気づいたお登世がおはまを説き伏せ、二人は忠太郎の跡を追いかけます。なのに、忠太郎は物陰に隠れてその呼び声に耳をふさぐばかり。母と妹の姿を見送ると、何処へともなく旅立っていきました。

 具体的にはどのようなお稽古だったのでしょうか。
 「勘三郎のおにいさんのご自宅のリビングで教えていただきました。忠太郎以外の役を全部勘三郎のおにいさんがなさる豪華版でした。字を知らない忠太郎が、半次郎の母おむらに手を取ってもらい、手紙を書くところでは、おにいさんは観客になりきり、“幹弘(本名)大丈夫、もういいよ”と泣き出された。“この役は獅童にあっているかもしれない、稽古しなくても大丈夫だよ”と褒めてくださいました。おにいさんはいつもは、こてんぱんなんですが、ちょっとでもいいところがあると、ものすごく褒めてくださいました」

 その初演のとき、特に心に残っていらっしゃることはございますか。
 「本番の舞台をご覧くださった後に“君はお母さん、お父さんのことが好きなんだね、そういう気持ちのある人じゃないと、こういう芝居はできない。本当に人を思いやる気持ち、人間らしい感情がないと世話物もできない。どんな嫌なことでも、いいことでも、全部役者の表現につながる…。人の気持ちがわかる、優しい気持ちが幹弘にはあるんだね”と、言ってくださったときは本当にうれしかったです」

 おはまは初演が英太郎さん、巡業公演(平成23年11月)と今回の明治座公演では、秀太郎さんですね。
 「秀太郎のおにいさんは、子どもの頃、楽屋をご一緒させていただき、とてもかわいがってくださいました。あのときはかわいかったと今もおっしゃいます。ですから男同士ですが、お母さんみたいな気がします。幼少時の思い出がいっぱいあるので、芝居でも、どこかオーバーラップしますね。それで芝居が、より一層深くなればいいかなと思っております」

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