歌舞伎いろは

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歌舞伎座 「吉例顔見世大歌舞伎」  『熊谷陣屋』今度の舞台を楽しく見るために

ようこそ歌舞伎へ 松本幸四郎

最後につながる熊谷の登場

 ――熊谷直実は揚幕から登場し、花道の七三あたりで組手を解いて右の袂(たもと)に数珠を入れます。

 今のお客様は、敦盛の身替りに討った我が子小次郎を思いながら、数珠を片手に出てくる熊谷の心境を、特殊なものとお思いになるかもしれませんが、私は源平の合戦当時は、戦場で人が死ぬのも日常的なことだったと思います。私はそこに、戦時下に置かれた人間の悲しい運命を感じます。

 熊谷の登場は、出家して舞台の最後の幕外での「十六年は一昔」のせりふにつながります。ですから花道の出での熊谷は、悲劇の現状を背負って出て来るのではないと思います。熊谷が顔に荒々しさの象徴である癇筋(かんすじ)を取っているのが、その証拠です。

 ――熊谷は陣屋に妻の相模がいることに驚き、「妻の相模を尻目にかけ」で怒ったように両手で袴をはたきます。

 いるとは思わなかった妻がいて、自分が敦盛の身替りに手に掛けた小次郎を気遣っている。これから辛い、悲しい、苦しい話を妻にしなければならないわけです。その気持ちを隠す意味での気持ちの表れと思います。

 歌舞伎劇に心理描写を加味した播磨屋型で、もっとさかのぼれば九代目團十郎から伝わっている写実味のある型です。袴を両方でポンとはたくのも自然な感情の流れでできます。そのときの熊谷は、もうそうするしかない。ああいう形でしか表すことができなかったでしょう。

『一谷嫩軍記』(いちのたにふたばぐんき)「熊谷陣屋」(くまがいじんや)

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平成18年10月歌舞伎座
撮影:福田尚武

 帰陣した源氏の武将、熊谷直実を出迎えたのは、堤軍次と、初陣の我が子小次郎を案じて東国から来ていた妻の相模。陣中に女は無用と一度は相模を叱った熊谷ですが、小次郎の働きや平経盛の三男、無官太夫敦盛を討ったことなどを話し始めます。そのとき、熊谷に斬りかかったのが敦盛の母、藤の方。その手を押しとどめた熊谷は、敦盛の最期を語り聞かせると、首実検の支度にと座を立ちます。藤の方は敦盛の形見、青葉の笛を奏でて涙にくれるのでした。

 義経が陣屋に現れ、首実検が始まりました。制札を引抜き、この文言に従って討ったと熊谷が差し出した首を見て、驚いたのは藤の方と相模。熊谷は制札を書かせた義経の意を汲みとり、後白河院の落胤である敦盛を助け、その身替りとして我が子小次郎を討ち取ったのでした。この様子をうかがっていた梶原平次景高が、義経が敦盛を救ったと鎌倉へ注進に駆け出すところ、石屋の弥陀六が石鑿(いしのみ)を投げて絶命させます。義経は弥陀六の正体が平宗清と見破り、鎧櫃(よろいびつ)にかくまった敦盛を預けました。戦支度で現れた熊谷は、義経に暇を願い出ると鎧兜を取り始め…。

胸がいっぱいになる首実検

 ――さらに陣屋には藤の方もいるし、梶原もいます。

 藤の方がいることで、事実を明かさなければならないと、熊谷は腹をくくったでしょうね。当時の武将としてはかつての主筋である藤の方(*)、それから女房である相模に明かすのが順序だと思います。「物語」では、敦盛の身替りに小次郎を立てたことを隠している。そこが、歌舞伎劇の含みの多いところです。現代劇ならすべて明らかにするところだと思います。それでも、心理描写の播磨屋型ではちらっちらっと内面を見せます。

 ――続いて義経の前での首実検があります。

 藤の方と相模は敦盛の首ではないことに気付きます。ことに相模に至っては青天の霹靂の出来事です。熊谷は藤の方には「御騒ぎあるな」、相模には「騒ぐな」と言って抑える。ここに来るといつも、あの時代に生きた人間の辛さ悲しさを思い、胸がいっぱいになります。

 ――熊谷は最後には出家の意思を固め、僧の姿となり、陣屋を後にします。幕が閉まり、幕外という花道での芝居があります。

 戦場の音が遠くで聞こえてきますが、もう世捨て人だからと自分を納得させ、諦める。花道の出と引込みが結びつきます。歌舞伎劇は破天荒な筋の狂言が多いと思われるかもしれませんが、実は首尾一貫しているんです。

* 熊谷が佐竹次郎と名のって御所の警備の役を勤めていた折に、藤の方に仕えていた相模と不義を働き、罰せられるところを、藤の方のとりなしで命を救われていた。

ようこそ歌舞伎へ

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