歌舞伎いろは

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歌舞伎座 「吉例顔見世大歌舞伎」  『熊谷陣屋』知っているともっと面白くなる!

ようこそ歌舞伎へ 松本幸四郎

今も心に残る、父、白鸚の教え

 ――熊谷を初演されたのは昭和43(1968)年2月国立劇場での勉強会「木の芽会」でした。お父様の(初世松本)白鸚さんに教わられたとうかがいました。

 父が私に教えるときは、いつもそうでしたが、やらせてみて違うとは言っても、どこをどうすればいいかは言わない。それでも「直実は坂東武者だからね」と幾度となく言ったことは印象に残っています。戦場で活躍した、無骨で勇ましい人間だという意味だと思います。荒くれ武士が主君のために息子を犠牲にし、無常を悟って出家するというとらえ方です。

 父の舞台を見ても、一人の武将として熊谷を演じておりましたし、教えを受けたときも、そういう感触を持ちました。ですが、私はほかの場面も含めて何度も熊谷を演じている間に、「熊谷陣屋」のみの上演の場合は、戦争の世に生きた熊谷と相模の夫婦愛に焦点を当てて演じるのが、歌舞伎劇としてもドラマとしても一番いいのではと思うようになりました。

 武将である熊谷の中では、常に私的な情と公的な武が葛藤し合っていたと、私は思います。

 ――本興行では九代目幸四郎ご襲名の昭和56(1981)年11月の歌舞伎座で、初めてお勤めになられました。

 本興行での初演は、(中村)歌右衛門のおじさんの相模、神谷町のにいさん(中村芝翫)の藤の方、中村屋の大叔父(十七世中村勘三郎)の弥陀六、(尾上)松緑のおじの義経という、今思っても足が震えるような配役でした。しかし、そういう思いをしたことが、後の宝になっております。

歌舞伎座「吉例顔見世大歌舞伎」

平成26年11月1日(土)~25日(火)

公演情報

『 一谷嫩軍記 』いちのたにふたばぐんき「 熊谷陣屋 」くまがいじんや

熊谷直実 松本 幸四郎
相模 中村 魁 春
堤軍次 尾上 松 緑
亀井六郎 大谷 廣太郎
片岡八郎 中村 種之助
伊勢三郎 大谷 廣 松
駿河次郎 中村 隼 人
梶原平次景高 幸太郎改め 松本 高麗五郎
藤の方 市川 高麗蔵
白毫弥陀六 市川 左團次
源義経 尾上 菊五郎

舞台にいたのは八代目幸四郎ではなく、熊谷直実その人

 ――昭和42(1967)年2月の歌舞伎座ではお父様の熊谷で、義経に出演されています。お父様の熊谷をどうお感じになられましたか。

 舞台にいるのはまさに熊谷直実その人。前から見ようが後ろから見ようが、首実検のときも、花道の引込みの姿まで、なにしろ、幕が開いてから閉まるまで、どこにも八代目幸四郎はいませんでした。『勧進帳』の弁慶でもその人物になりきっておりました。ことに晩年の舞台で強くそう感じさせられました。役者は最初は役を演じていたのが、最終的には役そのものになってしまうんですかね。

 ――白鸚さんの七回忌、十三回忌、二十七回忌でも『熊谷陣屋』が上演されています。松本白鸚さんにとっての『熊谷陣屋』はどんなお芝居だったのでしょうか。

 好きだったのではないでしょうか。播磨屋の祖父(初世中村吉右衛門)から習った熊谷を、最終的に父は自分のものにしました。播磨屋の祖父の舞台は映画に残っておりますが、父とはちょっと違います。せりふ回しは同じですが、何か違う。父の熊谷には父のよさがあった。播磨屋の祖父の、特に晩年の熊谷は、例えて言うと、ホロヴィッツのピアノみたいな独自の境地にありました。父は最後まで戦場で燃えたぎる坂東武士でした。

ようこそ歌舞伎へ

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