歌舞伎いろは

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大阪松竹座 「二月大歌舞伎」  『傾城反魂香』今度の舞台を楽しく見るために

ようこそ歌舞伎へ 四代目 中村鴈治郎

又平とおとくの夫婦愛

 ――『傾城反魂香』の又平の流れをお話しください。花道の出はどんなお気持ちでしょう。

 私の現在の演じ方は天王寺屋のおにいさん(中村富十郎)から教えていただいたものです。おにいさんが(二世尾上)松緑のおじさんから受け継がれた演じ方で、遡れば六代目(尾上菊五郎)さんでしょう。

 又平は女房のおとくと花道から登場します。師の将監の家を訪ねる道すがら、弟弟子の修理之助が、虎をかき消した功績で将監から土佐の名字を許されたことを、お百姓たちに聞かされてすでに知っています。若年の修理之助に先を越され、しょんぼりとし、女房にうながされてとぼとぼと歩いてきます。

 ――おとくが将監に又平に土佐の名字を許してくれと頼みますが、将監は拒絶します。絶望のあまり死のうとする又平におとくも同調します。そして手水鉢に描いた絵が反対側に抜ける奇跡が起こります。

 奇跡も起きますが、結局は夫婦愛です。天王寺屋のおにいさんの又平、父(坂田藤十郎)のおとくの舞台(平成10年2月歌舞伎座)を見てそう思いました。又平は絵がうまかったわけではない。絵が抜けたのも、一念が通じたからでしょう。将監もそれを認めて名を許す。お客様にもそこを喜んでいただけるような運びにしないといけないと思います。

『傾城反魂香』(けいせいはんごんこう)

 山科に蟄居している絵師、土佐将監は、住居裏の竹薮に現れた虎が、狩野元信の絵から抜け出たものだと見破ります。弟子の修理之助はこれを筆の力でかき消し、土佐の名字を許されます。そこへやってきたのが、兄弟子の浮世又平とおとく夫婦。弟弟子が名字をもらったと聞いて自分もと願う又平。話すのが不自由な夫に代わり、口の達者なおとくが将監に懇願しますが、突き放されてしまいます。

 ここへ狩野家に仕える雅楽之助が、主君の娘を救うために助けを求めにやってきます。なんとしても土佐の名字が欲しい又平は、その役を自分にと申し出ますが、将監は修理之助を送り出し、絵で功を立てよと又平を叱ります。かくして、生きる望みを失った又平は、おとくの勧めで最後に自分の絵姿を残そうと、手水鉢に自画像を描きます。すると奇跡が起こり…。

初代鴈治郎がやっていたとおりに

 ――大阪松竹座(平成24年1月)と博多座(平成26年2月)では又平の絵が抜けた後、将監が手水鉢を切ると又平の吃音が直る、という演じ方をなさいました。原作を吉田冠子が改作した『名筆傾城鑑』にあり、人形浄瑠璃では今でも上演されていますね。

 本行(人形浄瑠璃)を拝見して面白いと思い、やらせていただきました。上演した後に、歌舞伎でもその演じ方をしていたことがあるとうかがいましたが、それを知らなかったので、本行を参考に台本も自分でつくりました。大道具の仕掛けもお願いしてつくっていただきました。

 今回は、普段どおりに吃音の直らない演じ方をいたします。鴈治郎襲名なので、初代鴈治郎がやっていたように、ということです。その次からは、また吃音が直るやり方で勤めたいと思っております。

 そして、最後の大頭(おおがしら)の舞は、あくまでも絵師が踊っているという、ちょっとおぼつかない感じにしたいですね。

 ――本興行で初演されたのは平成15年12月の京都南座での顔見世。猿翁さんのご病気による降板で初日からお勤めになられました。

 天王寺屋のおにいさんのときも演じていた父のおとくで又平をできるのが、うれしかったですね。頼んでも相手役をしてくれるような人ではないので(笑)。お陰でその後も父と勤めることができたんだろうと思います。

 そのときに(竹本)住大夫お師匠さんに初めて教えていただきました。吃音の際に息を吸う(引く)のか、吐くのか、どちらかに決めて演じるようにと言われました。以来、ずっと引くほうで勤めております。

ようこそ歌舞伎へ

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