歌舞伎いろは

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歌舞伎座「吉例顔見世大歌舞伎」『若き日の信長』『河内山』 知っているともっと面白くなる!

ようこそ歌舞伎へ 市川海老蔵

自分にプレッシャーをかける

 ──夜の部の『河内山』は初役です。

 これまでに松江侯(平成23年9月大阪松竹座)と数馬(平成10年1月浅草公会堂)は演じておりますが、河内山宗俊は初めてです。大変でしょうね。祖父の十一世團十郎は『源氏店』の与三郎、『若き日の信長』、『勧進帳』の富樫、『入谷(雪暮夜入谷畦道)』の直侍(片岡直次郎)、『河内山』、そして『助六』など多くの代表作を持ちました。

 その中から今回演じるのが信長と、もう一つが古典の河内山。我々の世代は、古典作品を先輩方から継承していかなければなりません。それは急務です。7月に歌舞伎座で上演した『熊谷陣屋』もそういう思いで勤めておりました。

 ――河内山宗俊もそういうお役の一つということですね。

 團十郎家には「歌舞伎十八番」、「新歌舞伎十八番」がありますが、それ以外にも祖父や父、そして九世團十郎が得意としていた演目を学んでいかなければなりません。河内山を演じるのは自分にプレッシャーをかけるという意味もあります。今回は(片岡)仁左衛門のお兄さんに教えていただきます。

『天衣紛上野初花』「河内山」(くもにまごううえののはつはな こうちやま)

  ここは松江出雲守の上屋敷、腰元浪路が自分の意に添わず背いたと、出雲守が刀を振り回しています。しかも、近習頭の宮崎数馬が押しとどめるところへ、主君に取り入ろうとする北村大膳が、数馬は浪路と不義をしているから止めるのだと言うので、出雲守はいっそういきり立つ始末。ますます混乱するところへ、上野寛永寺の宮様の御使僧、北谷道海が来たとの知らせが来ます。堂々と現れたこの御使僧、実は御数寄屋坊主の河内山宗俊でした。

 河内山は出雲守に宮様の存在をほのめかしながら、松江家へ御奉公している上州屋の娘に、跡取りを迎えさせようとお暇乞いを願い出たものの、一向に聞き届けられないので親と親戚一同が困惑していると切り出しました。その娘とはまさしく浪路のことで、即座に断る出雲守に、河内山は松江家の興廃にも関わる話だと脅しをかけ、しぶしぶ暇乞いを承諾させました。出雲守が去った後は近習に金をねだり、小判の包みを前にほくそ笑む河内山。

 小判を手に入れ、浪路も家へ送られたと聞いて、河内山が機嫌よく帰ろうと玄関に立ったそのとき、河内山を引き留める声がかかり…。

歌舞伎座「吉例顔見世大歌舞伎」

平成27年11月1日(日)~25日(水)

『若き日の信長』わかきひののぶなが

織田上総之介信長 市川 海老蔵
弥生 片岡 孝太郎
五郎右衛門 坂東 亀 寿
監物 市川 九團次
甚左衛門 大谷 廣 松
林美作守 片岡 市 蔵
僧覚円 市川 右之助
木下藤吉郎 尾上 松 緑
平手中務政秀 市川 左團次

『天衣紛上野初花』くもにまごううえののはつはな 「河内山」こうちやま

河内山宗俊 市川 海老蔵
高木小左衛門 市川 左團次
宮崎数馬 市川 九團次
腰元浪路 中村 梅 丸
北村大膳 片岡 市 蔵
松江出雲守 中村 梅 玉

憧れの人、十一世の五十年債ができることへの感謝

 ――十一世團十郎さんは、海老蔵さんにとってどんな存在ですか。

 祖父は昭和40(1965)年の11月に亡くなっておりますので、私は祖父のお弟子さんや祖父を知る方の話やビデオ、DVDを通じてしか知りません。16歳くらいでしたか、祖父の映像を見たときに、こんなに格好いい男が世の中にいるんだ、というのが初めての印象でした。

 祖父の姿も声も顔も全部好きです。比較的怒りやすかったというのを聞きますが、そういうところも好きですし、十一世團十郎が大きい男だったからこそ、父のような大きな男が生まれたのではと思いますし、会っていないぶん嫌いなところがないので、全部に憧れています。

 ――お父様からは、お祖父様のどんな思い出を聞かれていますか。

 父が19歳の年に祖父は亡くなっているので、厳しい思い出しかなかったみたいです。『勧進帳』の富樫の名のりの、「かようにそうろうもの」を何十回もやらされたと聞いています。

 ――五十年祭は生前からお父様が計画していらしたとうかがいました。

 五十年祭は神道では大きな行事ですので、父は亡くなる5、6年前からやりたいと申しておりました。歌舞伎界には栄枯盛衰があります。その時代に生きた役者たちの力が、大きい存在であることもあれば、そうでないときもあるのが現実だと思います。

 そのなかで50年間、その家があり、五十年祭をできるのは、祖父が活躍し、“海老様”と呼ばれた時代をつくり、父も十二代目團十郎として『外郎売』をつくり、『象引』を復活し、「歌舞伎十八番」を継承したという、客観的に見ても確かな業績があるからでしょう。

 ――そして迎える11月の五十年祭。

 私は恵まれていて父の力と、そういうものをやりたいと興行側に考えていただける状況、さらに、諸先輩方も付き合ってやろうかと思ってくださる環境がありました。ですから、本当に祖父と父に感謝です。私一人では何もできません。本当にありがたい五十年祭だなと思っています。

ようこそ歌舞伎へ

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