Grand Kabuki History (後編)~歌舞伎アウトバウンド100周年に向けて~ Grand Kabuki History (後編)~歌舞伎アウトバウンド100周年に向けて~

忘れられないカーテンコール

平成13(2001)年訪英公演カーテンコールにて、左より、五代目中村翫雀(現 中村鴈治郎)、三代目中村鴈治郎(四世坂田藤十郎)/©松竹

 海外公演の経験が自分自身にもたらしたものもありました。『曽根崎心中』は父だけでなく私にとっても思い入れの強い作品です。初めて徳兵衛を勤めたのは大学生のときで、それは父とともにこの作品をつくりあげてきた祖父(二世中村鴈治郎)の代役でした。その後、何度か父の相手役を勤めさせていただき、そのたびにこの芝居は父のお初という絶対的な存在ありきで成り立っていると感じて来ました。またそこには祖父のようにはいかないという思いもありました。
 ロンドンでのカーテンコールで、両手を広げ拍手に応える父が、袖にいる私を手招きしたことがありました。それに応じて舞台に出て行ったところ、大きな拍手が起こりました。それはお初だけでなく徳兵衛もまた主人公の一人であると思ってくださっているからこその拍手。このときに作品をダブル主演のドラマとして観てもらえたのだと思うことができました。劇評も含め、徳兵衛を演じる役者として海外の皆様に認めてもらえたことで、ようやく祖父の呪縛から抜け出すことができました。

 ニューヨークで勘三郎のおじさん(十七世中村勘三郎)と歌右衛門のおじさん(六世中村歌右衛門)がカーテンコールをしている後ろ姿を舞台から撮影した写真があるのですが、いつだったか父がそれをじっと見ていたことがありました。その様子から父も行きたいのだろうな、と思いました。海外で近松座の公演をしたいという思いは、早い時期から父のなかにあったのだろうと思います。そして最初はぜひロンドンで、と考えていたと思います。というのも、父はあるとき、英国の名優であるローレンス・オリビエさんにマンチェスターでお会いする機会に恵まれました。そして近松座の夢を話したところオリビエさんから激励され、それが実現に向けての励みとなったのだそうです。

渡航時のアルバムを振り返り、
思い出話に花が咲くひと幕も
近松座の海外公演のプログラム。各国の言語で記され、デザインもさまざま

 江戸時代の初演以来、上演が途絶えていた『曽根崎心中』が復活上演されたのは昭和28(1953)年。それをきっかけに近松という作家の素晴らしさを知った父は、歌舞伎では改作が主流となっていた近松作品を原作に忠実に上演することを近松座で実践してきました。それは理論としての近松研究ではなく、近松が実際に生きた時代に盟友・初世坂田藤十郎とともにつくり上げた芝居としての作品世界を現代に甦らせるということです。
 近松という作家がつくり上げたドラマを歌舞伎という身体表現で、現実のものとしてお見せする。その舞台が海外のお客様に受け入れられ、芸術として評価されたことは、歌舞伎にとって非常に意味のある、大きなことだったと思います。
 今現在は厳しい状況ですが、安心安全に海外で公演ができる日がまたやってくることを心待ちにしております。

四代目 中村鴈治郎(なかむら がんじろう)

成駒家。昭和34(1959)年生まれ。昭和42(1967)年11月歌舞伎座『紅梅曽我』の一萬丸で中村智太郎を名のり初舞台。平成7(1995)年1月中座『封印切』亀屋忠兵衛ほかで、五代目中村翫雀を襲名。平成13(2001)年からは、父・四世坂田藤十郎とともに近松座の海外公演に出演。平成27(2015)年11月大阪松竹座『廓文章』の藤屋伊左衛門ほかで、四代目中村鴈治郎を襲名。直近では平成30(2018)年、中村扇雀とロシアで「松竹大歌舞伎 近松座訪露公演」を行う。令和元(2019)年、紫綬褒章受章。

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