歌舞伎いろは

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歌舞伎座「七月大歌舞伎」『盲長屋梅加賀鳶』
二代目 齊入さんのこと、お教えします

ようこそ歌舞伎へ 二代目 市川齊入

父が思いを込めた名前

 ――齊入という名跡は曾祖父様が初代で、この度のご襲名が二代目になります。襲名の思いをお聞かせください。

 去年97歳で亡くなった父親(二世市川右之助)が、曾祖父の齊入から1字を取り、私の本名を市川齊と付けてくれました。ですから、齊入を名のるのもご縁を感じます。齊入とその子で私の祖父である(二世市川)右團次の鏡台は、父が寄贈して早稲田の演劇博物館に入っております。今回の襲名で齊入の鏡台を使わせてもらう予定ですが、齊入は大正4(1915)年に引退しておりますから約100年ぶりです。右團次も復活しましたし、名前が世に出るのはありがたいです。

 ――昭和30(1955)年に三世市川寿海さんの部屋子になられたのですね。

 父は歌舞伎俳優を廃業いたしておりましたが、大阪の松竹からお話があり、私を舞台に出すことになったらしいです。寿海おじさんは、東京で二世左團次さんのところにいらした方です。初世齊入の父が(四世市川)小團次で、小團次の養子が初世市川左團次ですから、ご縁がありました。今度の『加賀鳶』は黙阿弥の作品で、小團次は黙阿弥と一緒に芝居をつくった俳優です。その黙阿弥さんの『加賀鳶』でお兼をやらせていただけるなんて、それもうれしいです。

十二世團十郎との忘れられない共演

 ――寿海さんの没後、十二世團十郎さんの門下となられました。

 團十郎の旦那が、『毛抜』の粂寺弾正を昭和47(1972)年1月に大阪・新歌舞伎座でお勤めになられたときに、私が錦の前をいたしました。その際に「寿海さんが亡くなったのなら、うちに来ないか」と言っていただき、お世話になることになりました。

 当時は菊五郎劇団に旦那がよく出演されていましたので、私も劇団の芝居に出ましたが、江戸弁がしゃべれないので、違う国に来たみたいでした。江戸の狂言のせりふが訛るので、(六世)菊蔵さんや團蔵さん、秀調さんによく教えていただきました。

 ――團十郎さんとの思い出があれば、お教えください。

 『傾城反魂香』のおとくを、旦那の又平でできたのがうれしかったです。「手も二本、指も十本ありながら…」のせりふで、本当に涙がこぼれてきました。(十世坂東)三津五郎さんの又平で、20代で勤めた経験があるのですが、当時は手も足も出ませんでした。もう一回やりたいと思っていたときに、旦那に使っていただけました。

 ――襲名会見で、今後はお婆さんの役を勤めたいとおっしゃっていました。

 特に、『引窓』のお幸、『国性爺合戦』の渚をもう一度演じたいです。渚は日本女性のつつましさ、強さのある役です。今後はお婆さんに限らず、女房役を勤めていきたいと思っております。

二代目 市川齊入 高嶋屋!

二代目 市川齊入さんをもっと知りたい!

二代目 市川齊入(いちかわ さいにゅう)

生まれ 昭和22年10月1日、大阪府生まれ。
家族 二代目市川右之助の長男。祖父は二代目市川右團次。
初舞台 昭和30年10月、三代目市川寿海の部屋子となり、大阪歌舞伎座『寺子屋』小太郎で三代目市川右之助を名のり初舞台。昭和48年2月より十代目市川海老蔵(十二世團十郎)に入門。
襲名 平成29年7月歌舞伎座『盲長屋梅加賀鳶』お兼で二代目市川齊入を襲名。
この一年の舞台

平成28年

7月 「七月大歌舞伎」 (歌舞伎座)
『景清』花菱屋女房おさく
10月 「秋の特別公演 古典への誘い」(全国公演)
『勧進帳』亀井六郎
11月 「博多座十一月大歌舞伎」(博多座)
『石川五右衛門』局押小路

平成29年

1月 「壽新春大歌舞伎」(新橋演舞場)
『源平布引滝』葵御前
2月 「六本木歌舞伎 第二弾『座頭市』」(EXシアター六本木)
『座頭市』乃木坂屋弥太郎
3月 「三月大歌舞伎」(歌舞伎座)
『引窓』お幸/『助六由縁江戸桜』後見
5月 「團菊祭五月大歌舞伎」(歌舞伎座)
『伽羅先代萩』大江鬼貫

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