役者絵からひも解く歌舞伎の世界 “一陽来復”への思い 役者絵からひも解く歌舞伎の世界 “一陽来復”への思い

“一陽来復”への思い


 歌舞伎とならんで、海外でも日本文化の粋として親しまれている浮世絵。葛飾北斎、歌川広重の風景画、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿の美人画、そして近年、人気を高めている武者絵の歌川国芳と、江戸の人気絵師たちの作品は、国内外を問わず今も数多くの人を魅了してやみません。

 そんな浮世絵の半数を占めているのは、実は歌舞伎の舞台や当時の人気俳優の姿を描いた役者絵です。役者絵というと東洲斎写楽の大首絵がすぐさまイメージされると思いますが、それ以外にも数多くの浮世絵師たちの役者絵が残存しています。このコーナーでは、展覧会などではなかなか紹介されることの少ない役者絵に光をあてて、役者絵から歌舞伎の世界へ皆様をご案内します。


「吉例 暫」

絵師:三代歌川国貞 嘉永元(1848)年生~大正9(1920)年没
落款:香朝楼国貞画(年玉印)
判型:大判錦絵5枚続
刊年:明治28(1895)年11月印刷発行
版元:福田熊次郎


右より、垣生五郎=三世市川猿蔵、那須の妹照葉=二世市川女寅

 今回紹介する作品は、九世市川團十郎が明治28(1895)年11月に、東京歌舞伎座で歌舞伎十八番の『暫』を上演した折の舞台を描いた、大判錦絵5枚続の役者絵です。

 天下をわが物にしようとする清原武衡が、目障りな加茂次郎義綱とその許嫁の桂の前を、家臣たちに命じて斬ろうとするところ、「しばらく」とこれを呼び止める声がかかります。その声の主こそ鎌倉権五郎景政。権五郎は窮地の義綱たちを救ったうえで、武衡たちをやり込め意気揚々と引き上げていくというひと幕ですが、この作品では権五郎が、中啓を振り上げて元禄見得をしてきまる、まさに眼目の一場面を描いています。

 基本的に浮世絵の続きものは、3枚続、2枚続が多くを占めていて、5枚続はやや稀な判型ですが、その横長の画面に、鎌倉権五郎をはじめとした主要な登場人物11人の姿を描き、祝祭感あふれる舞台の様子が生き生きと伝わってきます。

 とはいえ、『暫』のお芝居の流れをよくよく振り返ってみると、この作品には実際の舞台と異なる点がいくつかあります。まず元禄見得を見せる折の権五郎の扮装は、柿色の素襖を脱いだ形になっているはずです。加えて、鯰坊主と呼ばれる鹿島入道と権五郎のやりとりは、権五郎が花道七三に居ずまっている場面のはず。また武衡の家臣たちが刀を抜いてきまる形は、権五郎が「しばらく」と呼び止める直前の形です。

 この作品と現実の舞台との差異は、ひとつの画面に『暫』の印象的な場面をすべて集約して描くことを心がけたであろう、絵師の苦心、工夫の表れだと考えられます。その一方で、こうした点をとらえて、役者絵の画証資料としての危うさを訴える考えもありますが、絵師が誇張、美化して描いた点が、役者絵の魅力のひとつとなっているのもまた事実です。

 権五郎を始め、武衡、鯰坊主や女鯰、腹出しと通称される武衡の家臣、義綱、桂の前とそれぞれの人物の静と動を描き分け、すべての人物の視点が主人公の権五郎に集まるよう配置したバランスのよさに、この作品を描いた絵師の技量がうかがわれます。

右より、清原武衡=初世市川権十郎、東金太郎=初世市川猿之助

右より、鹿島入道=五世市川新蔵、足柄左衛門=五世市川寿美蔵

 そんな役者絵の魅力を十二分に伝えてくれるこの作品を描いた絵師は、三代歌川国貞です。江戸時代後期に絶大な人気を誇り、歌川派の総帥としてその屋台骨を支えた初代歌川国貞(三代歌川豊国)の名前と作品は、展覧会で目にした方も多いのではないでしょうか。一方で、初代国貞晩年の弟子で、明治時代に活躍した三代国貞(四代歌川国政、梅堂豊斎の名で紹介されることもあります)の作品に接する機会は稀だと思いますが、この作品のような役者絵の佳品を残しています。

 さて、歌舞伎に詳しい方ならご存じのとおり、『暫』は初世市川團十郎が元禄10(1697)年に自作自演した『参会名護屋』がその初演とされ、これを二世團十郎が練り上げて、作品の構成、衣裳、鬘などもいま見る形になったと伝えられています。その後、顔見世狂言の一場面として上演されるようになり、顔見世狂言の世界(時代設定)によって、主人公の名前もたびたび変わっていました。

 江戸の顔見世の風習が幕末にはすたれ、『暫』の上演は稀になっていましたが、この役者絵が取材した明治28年11月の歌舞伎座での上演は、九世團十郎が『暫』を18年ぶりに手がけるということでおおいに話題を集めました。現行の上演台本、演出はこの折の九世團十郎所演の台本、演出がもとになっています。

 『暫』の上演史を振り返るうえでも、まさに記念碑的な舞台であったわけですが、この舞台を実際に観た、岡本綺堂は次のように振り返っています。

 「わたしはこの時に「暫」という狂言を初めて見た。筋はもちろん単純なもので、これまでいろいろの記録によって想像していたのと大差なかったが、その舞台は豪壮華麗、なるほど江戸歌舞伎の華とはこれであろうかと、つくづく感嘆させられた。(中略)「暫」の舞台をわたしは豪壮華麗と前に言った。そんな抽象的の形容詞を仮りないで、もっと具体的にそれを説明したいのであるが、残念ながらわたしはそれを詳しく説明すべき詞を知らない。」

『明治劇談ランプの下にて』より

 綺堂のこのような回想文を読んだうえで、改めて今回紹介した作品を見ると、明治28年の歌舞伎座の舞台を観たかのような錯覚に襲われます。ちなみに現存最古の舞台写真は、このときの舞台を写真館玄鹿館の主である鹿島清兵衛が撮影したもので、九世團十郎の写真集『舞台之團十郎』でその写真を見ることができ、この役者絵と比較してみるのもまた一興といえましょう。

右より、鎌倉権五郎景政=九世市川團十郎、荏原八郎=七世市川八百蔵

右より、月岡桂の前=五世中村明石、老女呉竹=三世中村富十郎、加茂の次郎=四世市川染五郎

 ここに描かれている、初世市川猿之助は後の二世市川段四郎、七世市川八百蔵は後の七世市川中車、四世市川染五郎は後の七世松本幸四郎で、いずれも次代の歌舞伎界を担った人々です。そして五世市川新蔵は、九世團十郎門下の俊英でしたが、眼の病のために早世した花形俳優で、眼帯をした鯰坊主のブロマイドが残っています。また五世中村明石は、十五世中村勘三郎のことです。

 江戸の人々は、顔見世ことに『暫』に、“一陽来復”の思いを重ねていました。この作品の絵師である三代国貞の師筋にあたる、初代豊国が描いた肉筆役者絵「七代目市川團十郎芝居姿絵『暫』」(江戸東京博物館蔵 資料番号87200723)に、「いさましや一陽来復今ここに悪魔たちさる暫の声」と記した桜川慈悲成の画賛は、まさにそうした江戸時代の人々の思いを表したものと言えます。

 江戸の人々が『暫』に託した思い同様に、一陽来復のときが来たることを待つばかりです。


役者絵からひも解く歌舞伎の世界

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