役者絵からひも解く歌舞伎の世界 河竹黙阿弥 没後130年にちなんで 役者絵からひも解く歌舞伎の世界 河竹黙阿弥 没後130年にちなんで

河竹黙阿弥 没後130年にちなんで


河竹黙阿弥晩年の肖像写真(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

 2023年は、歌舞伎を代表する作者といっても過言ではない、河竹黙阿弥(1816年生~1893年没)の没後130年という節目の年にあたります。そこで今回は、黙阿弥にちなんだ役者絵の数々とその周辺資料をご紹介します。


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前列右より、四世中村芝翫、四世市村家橘、初世河原崎権十郎 後列右より、三世桜田治助、河竹黙阿弥、三世瀬川如皐

「三芝居舞台開口上」(さんしばいぶたいびらきこうじょう)

絵師:落合芳幾 天保4(1833)年生~明治37(1904)年没
判型:大判錦絵3枚続
落款:応需芳幾筆(芳桐いく印)
刊年:元治元(1864)年 「子六改」(改印)
版元:古賀屋勝五郎


 まず最初に取り上げる作品は、芳幾の「三芝居舞台開口上」です。
 元治元(1864)年4月22日夜に発生した火事により、江戸三座(中村座、市村座、守田座)は類焼してしまいます。同年夏に三座は再建されて、舞台開きが行われましたが、その前宣伝を兼ねて出版されたのが本作品で、座元の名代の俳優と立作者が描かれています。

 画面右から守田座の四世中村芝翫、三世桜田治助、中央には市村座の四世市村家橘(のちの五世尾上菊五郎)、河竹黙阿弥(当時 二世河竹新七)、左には中村座の初世河原崎権十郎(のちの九世市川團十郎)、三世瀬川如皐となっています。
 狂言作者が役者絵に描かれるのは稀なうえ、幕末の江戸歌舞伎をけん引した三人の作者の面影をうかがうことができる貴重な作品です。

河竹黙阿弥(当時 河竹新七)

 長老格の三世桜田治助は、浄瑠璃所作事を得意とし、『京人形』や『神楽諷雲井曲毬 どんつく』、全段を常磐津で通した大作『三世相錦繍文章(さんぜそうにしきぶんしょう)』がその代表作です。
 三世瀬川如皐は、『東山桜荘子 佐倉義民伝』『与話情浮名横櫛 切られ与三郎』の作者としてご存じのとおりです。

 そして三人のなかで最年少の黙阿弥は当時49歳。市村座の立作者として活躍しながら、守田座にも“スケ”として特別に出勤し、三世澤村田之助のために『処女翫浮名横櫛 切られお富』を書き下ろす活躍ぶりでした。


四世清元延寿太夫、四世市川小團次、河竹黙阿弥

「俳優楽屋の姿見 作者部屋」(はいゆうがくやのすがたみ さくしゃべや)

絵師:二代歌川国貞 文政6(1823)年生~明治13(1880)年没
判型:大判錦絵
落款:国貞画(年玉枠)
刊年:元治元(1864)年 「子正改」(改印)
版元:遠州屋彦兵衛
彫師:彫豊

 続いての作品は、二代国貞による「俳優楽屋の姿見」という楽屋風景を題材とした揃い物の一図です。

 作者部屋で「曽我物語」と記された台帳(歌舞伎の台本)を手にする黙阿弥に、楽屋着の四世市川小團次が話しかけている様子を描いています。四世小團次は、市村座の火縄売りの子として生まれながら、歌舞伎俳優の道を志し、その芸の確かさと人気で座頭まで上り詰めた名優で、安政から慶応にかけて江戸歌舞伎を支えた存在です。一方、小團次の後ろに立っているのは、美声で人気を博した四世清元延寿太夫です。

 黙阿弥の作、小團次の主演、延寿太夫の浄瑠璃によって生み出された清元の作品が『十六夜(小袖曽我薊色縫)』、『流星(日月星昼夜織分)』などです。
 安政元(1854)年に上演された『都鳥廓白浪 忍ぶの惣太』で、小團次の芸風を生かすために台本の改訂を重ね、その信頼を獲得した黙阿弥は、小團次のための新作を続々と書き下ろし、狂言作者としての地位を確立しました。この作品からも、当時の小團次と黙阿弥の蜜月ぶりが画面から伝わってきます。 

 黙阿弥の後ろにある“状さし”には、劇中で使用される手紙や証文が入れられています。この手紙や証文の作成も狂言作者の重要な仕事の一つで、現在でも歌舞伎座を始めとした各劇場の作者部屋には、この状さしが設置されています。


幸次郎=二世澤村訥升、和国ばし藤次=四世市川小團次、竹もんの虎=四世市村家橘

「第二番目 三題咄高座新作」(だいにばんめ さんだいばなしこうざのしんさく)

絵師:落合芳幾 天保4(1833)年生~明治37(1904)年没
判型:大判錦絵3枚続
落款:芳幾画(よし枠、芳桐印)、芳幾画(よし枠、唐花印)
刊年:文久3(1863)年 「亥二改」(改印)
版元:海老屋林之助
彫師:松島彫政


 さて、文久年間(1861~1864)に江戸の文人たちの間で、三題咄が大流行します。三題咄とは三つの題をもとに一つの落語として構成するもので、金座役人で通人として知られた高野酔桜軒こと好文舎花兄が率いる粋狂連、大伝馬町の豪商である勝田市兵衛こと春廼屋幾久が率いる興笑連の二つの集まりが形成されました。

 黙阿弥もこれに参加し、その同人には狂言作者の三世瀬川如皐、落語家の三遊亭圓朝、二世柳亭左楽、戯作者の仮名垣魯文、山々亭有人(日本画家鏑木清方の父)たちも参加していました。
 この集まりのなかで、黙阿弥は“和藤内” “乳貰い” “掛け取り”の三題をまとめた咄を高座で披露し、これが好評であったことから、小團次のための世話狂言として書き下ろしたのが『三題咄高座新作 和国橋の藤次』です。

 ここで紹介する役者絵は、『三題咄高座新作』の序幕向両国百本杭の場を描いたものです。平野屋幸次郎から百両の金を奪い花道へ逃げていく掏摸の竹門の虎。百両を取り返そうと揉み合う拍子に、後日の証拠となる虎の掛守りを手にした幸次郎。そして二人の争いに巻き込まれた髪結い藤次が尻もちをつくのきっかけに柝の頭となって、幕が引かれていく幕切れの瞬間を見事に表現しています。
 今まさに引かれようとしている幕は、粋狂連、興笑連が黙阿弥のために贈った引幕です。引幕は本来、歌舞伎俳優のために贔屓が送るものですが、狂言作者に贈られるのは前代未聞のできごとでした。ちなみに、この引幕にある朱色の判じ紋は興笑連の紋で、亀甲枠に笹の紋は黙阿弥の紋です。

 実はこの作品を描いた、芳幾自身も三題咄の会の同人の一人であり、その縁もあって、あえて引幕を描き込んだのでしょう。また、黙阿弥がこの会で、「玉子酒」「筏」「熊膏薬」から創作した三題咄が、今も繰り返し高座にかけられている「鰍沢」です。

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