役者絵からひも解く歌舞伎の世界 顔見世興行、“芝居国の正月” その壱 役者絵からひも解く歌舞伎の世界 顔見世興行、“芝居国の正月” その壱

顔見世興行、“芝居国の正月” その壱


 歌舞伎とならんで、海外でも日本文化の粋として親しまれている浮世絵。葛飾北斎、歌川広重の風景画、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿の美人画、そして近年、人気を高めている武者絵の歌川国芳と、江戸の人気絵師たちの作品は、内外を問わず今も数多くの人を魅了してやみません。

 そんな浮世絵の半数を占めているのは、実は歌舞伎の舞台や当時の人気俳優の姿を描いた役者絵です。役者絵というと写楽の大首絵がすぐさまイメージされると思いますが、それ以外にも数多くの浮世絵師たちの役者絵が残存しています。このコーナーでは、展覧会などではなかなか紹介されることの少ない役者絵に光をあてて、役者絵から歌舞伎の世界へ皆様をご案内します。


 江戸時代、歌舞伎役者と芝居小屋との出演契約は1年に限ったもので、出演する役者がそれぞれの芝居小屋で毎年、異なっていました。新たな出演契約を結び、向こう1年出演する役者の顔ぶれを披露する役割を担っていったのが、11月に行われる顔見世(かおみせ)興行で、“芝居国(しばいこく)の正月”とも称され、芝居街(しばいまち)がひときわ賑わいをみせました。
 ひと口に顔見世といっても、京、大坂、江戸の三都の芝居街で、それぞれ異なる行事、風習がありましたが、今回、次回と2回に分けて、江戸の顔見世の賑わいを役者絵とその周辺資料からひも解いていきます。

 ※画像は、クリックして拡大できます

「弘化3年 河原崎座新役者付」(かわらさきざしんやくしゃづけ)

絵師:二代鳥居清満 天明7(1787)年生~明治元(1868)年没
落款:絵師 鳥居清満筆
刊年:弘化3(1846)年10月
版元:丸屋甚八


 まず最初に紹介するのは、弘化3(1846)年に刊行された河原崎座の新役者付、いわゆる顔見世番付です。向こう1年に出演する役者のみならず、長唄囃子連中や浄瑠璃連中、狂言作者の名も記されます。この顔見世番付も三都で形式が異なっていましたが、江戸のものは、上段に連名、下段に出演する役者の絵姿を描く形式に定まっていました。
 顔見世番付の役者絵は、絵看板を担当していた鳥居派の絵師が担当するのが慣例で、鳥居派ならではの古風な描き方であるため、似顔絵にはなっていません。

「弘化3年 河原崎座新役者付」部分

 画面中央に描かれているのが座頭の四世中村歌右衛門、その左隣には立女方の四世尾上梅幸(のちの四世菊五郎)が描かれています。さらにその左下に描かれている子役は三世河原崎長十郎。この長十郎こそ、のちの名優九世市川團十郎で、数え年で9歳でした。

「弘化3年 河原崎座新役者付」部分

 また連名には、役者名だけでなく、得意とする役柄が書かれますが、歌右衛門の役柄の箇所には「兼ル(かねる)」と記されています。これは幅広い役柄と芸域をもった役者への最大級の尊称で、四世歌右衛門は、立役から女方、所作事にも優れたこの時代を代表する名優でした。

 10月20日前後に顔見世番付ができあがり、町奉行所へ提出のうえ、贔屓筋に配られるほか、町々でも売られましたが、人々は競ってこれを買い求めました。
 11月1日の初日を翌日に控えた10月30日には、芝居茶屋の軒先に飾りものや行灯、提灯が並び、芝居小屋の前にはご贔屓から送られた積樽(つみだる)などがところ狭しと据え置かれました。こうした顔見世の芝居街の賑わいは「誠に江戸の花の顔みせ、たとえんものなし」(「芝居年中行事」)と評されました。
 往時の顔見世の様子を、明治時代になって懐古的に描いた作品が、続いて紹介する周延の「江戸風俗十二ケ月之内十一月猿若町顔見世積物之図」です。
 芝居茶屋の2階から、芝居小屋と表通りの人の波を眺める美人二人と親子連れ、さらにお客をもてなす芝居茶屋の仲居の姿が描かれています。

「江戸風俗十二ケ月之内十一月猿若町顔見世積物之図」(えどふうぞくじゅうにかげつのうちじゅういちがつさるわかまちかおみせつみもののず)

絵師:楊州周延 天保9(1838)年生~大正元(1912)年没
落款:楊州周延筆(年玉印)
判型:大判錦絵3枚続
刊年:明治22(1889)年10月 日印刷出版
版元:横山良八
彫師:円活刀(野口円活)


 画面右の親子連れの後ろに見えるのは、軒先に飾られている小林朝比奈の人形で、画面中央の美人二人の傍らに見える櫓幕(やぐらまく)に“根上り橘(たちばな)”の座紋と“市むら”の文字が見えることから、正面の芝居小屋が市村座であることがわかるほか、向かいの芝居茶屋の軒先の大きな宝船が姿を見せています。画面左にも、同じく向かいの茶屋に飾られる、曽我十郎、大磯の虎、曽我五郎の人形と、積樽が見えます。
 積樽の薦(こも)には絵師の周延が属する歌川派の“年玉印(としだまいん)”を酒の銘柄のように見せかけて描いています。この積樽の送り主である“川通(かわどおり)”とは、江戸の代表的な贔屓衆のことで、魚河岸や青物問屋をはじめとする人々で構成されていました。

 さて江戸の顔見世狂言は、作劇にも一定のルールがあり、『暫』ではじまり、“だんまり”や狐や樹木の精霊などが活躍する所作事、さらに雪の季節の世話(町人世界)の場面があり、最後に謀反人などの見顕(みあらわ)しとなる構成になっていました。
 とはいえ、こうした顔見世狂言の伝統も、江戸時代後期には絶えてしまい、冒頭で取り上げた弘化3年の河原崎座の顔見世の場合、『一谷嫩軍記』『廓文章』などを上演しています。

「古代今様色紙合」「公家悪」「しばらく」(こだいいまようしきしあわせ)(くげあく)

絵師:三代歌川豊国 天明6(1786)年生~元治元(1864)年没、二代鳥居清満 天明7(1787)年生~明治元(1868)年没
落款:一陽斎豊国画(豊国印)、鳥居清満画(清満印)
判型:大判錦絵
刊年:嘉永5(1852)年12月 「村田」「衣笠」(名主印)、「子十二」(改印)
版元:上州屋重蔵
彫師:彫竹(横川竹二郎)


 次に紹介する役者絵は、顔見世につきものであった『暫』を描いた、「古代今様色紙合」という役者絵のシリーズの一図です。鳥居派の役者絵を“古代”、歌川派の役者絵を“今様”とし、色紙枠のなかに新旧の役者絵を並べた作品で、鳥居家五代目当主の二代清満が鳥居派の魅力あふれる『暫』を描き、歌川派を率いた三代豊国が公家悪を、七世市川團十郎(当時 五世海老蔵)の似顔で、横向きで描いています。『暫』の祝祭性と、鳥居派と歌川派、それぞれの役者絵の魅力が伝わってくる作品と言えるでしょう。

 最後に紹介する役者絵は、江戸の芝居小屋の内部を描いた、「踊形容江戸絵栄」という作品です。
 顔見世興行のみに吊るされた役者の家紋の入った“場吊提灯(ばづりちょうちん)”があることや、『暫』を上演しているところから、華やかな顔見世の舞台と客席を描いたことがわかります。しかし、この作品が出版された安政5(1858)年には、「江戸の花」と称された顔見世の風習も途絶えており、往時の顔見世を紙上に再現した作品といえます。ちなみにこの安政5年は、江戸の街でコレラが大流行した年でもあります。
 天井から下がる天幕(てんまく)には、右から中村座の“隅切銀杏(すみきりいちょう)”、市村座の“根上り橘”、守田座の“丸に片喰(かたばみ)”の座紋が見えることから、特定の芝居小屋を描いたものではありません。

「踊形容江戸絵栄」(おどりけいようえどえのさかえ)

絵師:三代歌川豊国 天明6(1786)年生~元治元(1864)年没
落款:一陽斎雛獅豊国画(年玉印)
判型:大判錦絵3枚続
刊年:安政5(1858)年7月 「午七」(改印)
版元:濃州屋彦兵衛


 『暫』は初世河原崎権十郎(のちの九世團十郎)、ウケ(公家悪役の通称)は権十郎の実父である七世市川團十郎(当時 五世海老蔵)の似顔になっていますが、実際の上演に基づかない見立(みたて)の役者絵です。
 舞台や花道の様子は、浅草猿若町(現在の東京都台東区浅草6丁目)に江戸三座があった時代の芝居小屋を写していると思いますが、客席については、文化14(1817)年に刊行された、初代豊国の「中村座内外の図」の客席の描写をそのまま用いており、安政年間の江戸の芝居小屋の様子をどの程度、リアルに描いているのか、判断が難しいところです。

 下手(向かって左側)の本花道は本舞台と同じ高さになっていますが、上手(向かって右側)の東の花道(今日の仮花道)は、客席の通路としての使用に重きを置き、本舞台とは段差がつけられていることが見てとれます。また舞台面上部の黒い線は、定式幕をはじめとした引幕を吊るための針金です。

上桟敷の奥女中たち
高土間や土間の様子
本舞台と羅漢台、吉野の様子

 客席上手、客席下手の上桟敷(二階桟敷)には揚帽子(あげぼうし)をつけた御殿女中たちや武士の姿が見えるほか、高土間には裕福な町人たちの親子連れ、土間には職人たちの姿が、さらに舞台後方の客席の羅漢台、その二階部分の吉野(通天とも)にも大勢の観客が詰めかけている様子が描かれています。
 さまざまな身分の人々が、芝居茶屋などから食事や酒、菓子を持ち込み、芝居見物を楽しむ様が作品から伝わってきますが、芝居小屋のざわめきまで聞こえてくるようです。

 歌舞伎座で顔見世興行が復活されたのは、いまから半世紀以上前の昭和32(1957)年のこと。以来、深秋を彩る風物詩として定着し、正面玄関の破風の上には、官許の芝居小屋の証であった櫓がお目見得します。

 次回の「顔見世興行、“芝居国の正月” その弐」もお楽しみに。