役者絵からひも解く歌舞伎の世界 “十三代目市川團十郎白猿襲名にちなんで” その壱 役者絵からひも解く歌舞伎の世界 “十三代目市川團十郎白猿襲名にちなんで” その壱

“十三代目市川團十郎白猿襲名にちなんで” その壱


 待望の十三代目市川團十郎白猿襲名披露興行が、いよいよ歌舞伎座で幕を開けます。歌舞伎美人では「役者絵からひも解く歌舞伎の世界」で、11月、12月に上演される襲名披露狂言を描いた市川團十郎家にちなんだ役者絵、さらにその周辺資料をご紹介します。

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 まず最初にご覧いただくのは、このたび、発見された五世市川團十郎の墨蹟です。五世團十郎(当時 初世市川鰕蔵)は、寛政8(1796)年11月江戸都座で一世一代の舞台を勤めて引退し、同時に孫の初世市川新之助に五世市川海老蔵を襲名させます。この五世海老蔵こそ、のちの七世團十郎です。
 引退に際して五世團十郎は、自らの心境をもとにした三首の狂歌を詠んだことが、『花江都歌舞妓年代記(はなのえどかぶきねんだいき)』などで紹介されています。

 この引退記念の狂歌三首を、ご贔屓の求めに応じて扇面に記したのが「三詠扇面」です。

「三詠扇面」包紙

「三詠扇面」(さんえいせんめん)

筆者:五世市川團十郎 寛保元(1741)年生~文化3(1806)年没
形態:扇面 紙本墨書
落款:巽空舎白猿
年代:寛政8(1796)年

うへつかたならは 紅裏(もみうら)召すころに 我はぬぎけり もみうらいしやう
身の程をかへり みますのゑびなれは 腰をかゞめて ひげ述るなり
惜しまるゝとき ちりてこそ世の中の 花も花なれ鼻も鼻なれ
右 巽空舎白猿


参考図 耳鳥斎『絵本水や空』稀書複製会本

 一首目は、身分の高い方ならば、還暦祝いの赤い着物を着る頃に、自分は紅裏衣裳(歌舞伎の衣裳のこと)を脱いだと詠じています。時に五世團十郎は56歳でした。
 二首目では、「身の程をかへり三升の鰕(えび)なれば」と、自らの心境に「三升」と「鰕」を詠みこみ、長いひげをもち、身を曲げる鰕の姿と、老境に入った自らの姿を重ね合わせています。
 三首目は、戦国武将の清水宗治の辞世と伝わる(広本『醒睡笑』)「惜しまるるとき散りてこそ世の中の花も花なれ色も色なれ」をふまえた狂歌で、「花」と五世團十郎の特徴でもあった高い「鼻」をかけています。

 文人としての才能も豊かであった五世團十郎の素養と、成田屋の由緒ある俳名である“栢莚(はくえん)”を名のるにはおこがましいとの思いから、同じ音で表記を変えた“白猿”と名のった謙虚な人柄、そして自らの俳優人生の引き際への思いが、この三首からも十二分にうかがわれます。
 なお、ここで使用されている「巽空舎」の号は、晩年を過ごした牛島須崎村(現在の東京都墨田区向島4丁目5丁目界隈)の隠居所にちなむものと考えられます。十三代目が團十郎白猿と名のるのは、この五世團十郎の故事にちなむもので、先代、先々代に及ばないという思いにもとづくものです。

 五世團十郎の墨蹟は人気があり、勝川春章の『役者夏の富士』でも、五世團十郎が扇面に揮ごうしている様子が描かれています。
 現存するものが少ない五世團十郎の墨蹟で、なおかつ引退を寿いだ三首の狂歌を記した扇面の、時を経ての発見は誠に意義深いことです。扇面の料紙も、銀を使った大変豪華なもので、その点からもこの扇面が特別なものであることがうかがわれます。

参考図 勝川春章『役者夏の富士』(国立国会図書館蔵)

 さて、歴代の團十郎の襲名披露のなかでも、歌舞伎の歴史を振り返るうえで特筆すべきものは、天保3(1832)年3月の八世團十郎の襲名披露でしょう。父親の七世團十郎は、かつて名のっていた五世海老蔵に戻り、長男の六世海老蔵が八世團十郎を名のる親子二代の披露興行でした。
 この襲名にあわせて、七世團十郎が公表したのが、市川團十郎家の家の芸である“歌舞伎十八番”です。

「歌舞妓狂言組十八番」制定摺物(かぶききょうげんぐみじゅうはちばんせいていすりもの)

絵師:二代鳥居清満 天明7(1787)年生~明治元(1868)年没
判型:大奉書全紙判
落款:五代目 鳥居清満筆(清満印)
刊年:天保3(1832)年3月
版元:丸屋甚八


 続いてご紹介する作品は、歌舞伎十八番の制定と親子二代の襲名を記念してつくられた摺物(すりもの)です。摺物は浮世絵の一種で、販売を目的としたものではなく、配り物としてつくられた特別な印刷物です。
 歌舞伎では、俳優の襲名や追善にあわせて、ご贔屓を始めとした関係各所に、こうした摺物が配られたと考えられています。
 “江戸市川流”と横書きで大書し、その下に初世團十郎から六世團十郎に至るまでの功績を記し、初世以来“百八拾二年代々連綿不絶血統”と絶えることなく團十郎家が続いてきたのも、成田山の利益と江戸のご贔屓のおかげだと感謝し、この興行が“歴代相続の寿興行”であると位置づけています。
 画面中央には、三升の紋と寿の文字。鳥居派の祖である鳥居清信の『風流四方屏風(ふうりゅうしほうびょうぶ)』の初世團十郎の姿を、鳥居派の五代目にあたる二世鳥居清満が写して描いています。

 この摺物から、天保3年の制定時には、“歌舞妓狂言組十八番”という名称であったことがわかります。なぜ“十八”という数を用いたのかは、正確なところはわかっていませんが、十八という数がもつ“めでたさ”と、仏教用語などの“十八”に始まる言葉の影響などがあるのではと推測されています。
 ちなみに、画面中央の左下に押されている印は、旧蔵者の林忠正のものです。林忠正はパリで活躍した美術商で、浮世絵を始めとした日本美術品を輸出し、ジャポニスムに大きく寄与しました。

参考図 鳥居清信『風流四方屏風』稀書複製会本
「歌舞妓狂言組十八番」部分 林忠正の所蔵印

役者絵からひも解く歌舞伎の世界

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