役者絵からひも解く歌舞伎の世界 河竹黙阿弥 没後130年にちなんで 役者絵からひも解く歌舞伎の世界 河竹黙阿弥 没後130年にちなんで

「新富座劇場三階之図」 (しんとみざげきじょうさんかいのず)

絵師:神山清七 生没年未詳
判型:大判錦絵
落款:神山清七
刊年:明治14(1881)年 明治十四年七月十一日御届
版元:神山清七

 続いてご紹介するのは、「新富座劇場三階之図」と題された作品です。明治になりいち早く猿若町(現在の台東区浅草6丁目周辺)から市街地の新富町(現在の中央区新富2丁目)へと移転した守田座は、その名も新富座と改めて、歌舞伎座が開場するまで、東京第一の劇場となっていました。明治11(1878)年に落成した当時の新富座は、江戸時代以来の芝居小屋の象徴ともいうべき櫓を無くし、ガス灯を設置するなど、その設備も最新のものを取り入れていました。

 その一方で本図からうかがわれる当時の新富座の楽屋の様子は、一階に頭取部屋、作者部屋、囃子部屋、二階に女方の楽屋、三階は座頭の楽屋を始め、立役の楽屋、そして囲炉裏と、江戸の芝居小屋の楽屋そのままの造作となっています。
 一階の作者部屋には、「川竹新七」として黙阿弥の姿が、その隣の頭取部屋には座主の十二世守田勘弥の姿が見え、部屋の中央に柱時計が掛けられているのが、明治時代の楽屋図ならではです。

「新富座劇場三階之図」部分

 階段の昇り口に、若手の狂言作者が柝を持って立ち、その傍の詞書に「まわりまちでござい」とあります。この“まわり”とは、まもなく幕が開くことを、楽屋をまわりながら柝を打って知らせるもので、これもまた狂言作者の大切な仕事の一つです。この詞書から“まわり”の風習が当時すでに定着していたことがわかる貴重な傍証資料となっています。

 黙阿弥はこの作品が刊行された明治14(1881)年11月新富座のために書き下ろした『嶋鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)』を一世一代の作品として引退を表明。河竹新七の名前を高弟の竹柴金作に譲り、自身は黙阿弥と名のるようになります。


 さて、黙阿弥の曾孫にあたる河竹登志夫氏が著した『作者の家』『黙阿弥』は、黙阿弥とその家族について記した名著として誉れ高い作品です。この二作でも触れられているように、黙阿弥は妻の琴との間に、一男三女に恵まれました。三女のますは夭折しましたが、長男の市太郎は商いの道を進み、長女の糸は父の文筆の才を受け継ぎ、黙阿弥作品の著作権、興行権のみならず、その家名も相続し、作者の家を守りました。
 そして、次女の島は黙阿弥の絵筆の才を受け継ぎ、黙阿弥の親交のあった柴田是真の弟子となり、その才能をいかんなく発揮しました。

 次に紹介するのは、島の描いた団扇絵で、表面には竹に雀、裏面には菊の図と“日本はし寒菊”の印があります。“寒菊”は日本橋にあった著名な待合で、顧客への配り物とした団扇だったと考えられます。

「竹に雀図」(たけにすずめず)(表)、「菊図」(きくず)(裏)  

絵師:河竹島女 安政3(1856)年生~明治22(1889)年没
判判型:団扇絵
落款:島女(河竹印)
刊年:明治中期(1877~1889)頃


「尾花末露曽我菊」表紙

清元正本「尾花末露曽我菊」(きよもとしょうほん おばながすえつゆのそがぎく)
「秋季浄るり会しんきょく 尾花かすゑ露の曽我菊 清元」

絵師:河竹島女 安政3(1856)年生~明治22(1889)年没
判型:半紙本
落款:島女(河竹印)
刊年:明治20(1887)年 明治廿年御届九月廿日
版元:加藤忠兵衛

 続いて紹介するのは、清元『尾花末露曽我菊』の正本(音曲の詞章を記した本)です。黙阿弥の作詞、四世清元延寿太夫の節付によるこの作品の正本絵表紙を担当したのは島でした。
 奥付には「編集人 吉村新七 本所区南二葉町三十一番地」と記されています。この「吉村新七」は、黙阿弥のことで吉村はその本姓です。南二葉町は黙阿弥の終の棲家の住所で、河竹登志夫氏の上記の著書によると、本所の居宅の広めに作られた庭を彩った草花は、肺を患った島が外出することなく写生できるようにという親心から植えられたものとのことです。「曽我菊」の正本に描かれる秋の草花は、まさにその庭に植えられたものを描いたのかもしれません。

「尾花末露曽我菊」本文と内題
「尾花末露曽我菊」本文と奥付

 

黙阿弥たちが愛でた石灯籠と蹲を見に行こう!

 黙阿弥や糸、島たちが眺めた本所の庭にあった遺愛の石灯籠と蹲(つくばい)は、第五期歌舞伎座の新開場を祝し、河竹登志夫氏から送られ、現在は歌舞伎座の屋上庭園に据えられて、悠久の時を刻んでいます。

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