役者絵からひも解く歌舞伎の世界 顔見世興行、“芝居国の正月” その弐 役者絵からひも解く歌舞伎の世界 顔見世興行、“芝居国の正月” その弐

 

幸四郎と團十郎

 この楽屋図3枚目の三階箇所は、座頭部屋の様子を描いており、鼻が高いところから、“鼻高幸四郎”と通称された五世松本幸四郎が楽屋着姿で、鏡台を背にして座っています。幸四郎の前には、正本(台本のこと)を持つ狂言作者の成田屋助、勝浦周蔵がいます。勝浦周蔵はのちに勝井源八と名を改めますが、源八時代の代表作に『藤娘』があります。
 狂言作者の目の前では、名題下の二世坂東善次と坂東鶴十郎が動きをつけていますが、善次は立廻りをつくる立師(たてし)としても活躍した役者で、同門の鶴十郎と立廻りの動きを幸四郎や狂言作者に見せている様子を描いているのでしょう。
 

 ちなみに坂東鶴十郎は、四世南北の息子でのちに役者を廃業し、狂言作者へと転身、父の前名を継いで、二世勝俵蔵(かつひょうぞう)を名のりました。鶴十郎は役者時代から、南北の執筆活動を支え、先にあげた『お染の七役』についても、その手助けがあったと伝えられています。
 幸四郎の隣には、出を待つ七世市川團十郎が一服していますが、團十郎の後ろには不動明王が祀られた厨子が安置され、壁には成田山新勝寺の御札が見えています。
 また、大風呂敷に包まれた荷物を片付けようとする男衆の前には、團十郎が着用する、顔見世につきものの『暫』の鬘箱があります。

 そのまま下の二階に目を移すと、立女方の五世半四郎の楽屋の様子が描かれています。その右隣は、初世中山亀三郎の楽屋で、亀三郎がこれから白粉を塗ろうと刷毛を手にしていますが、鏡台の上を見ると細い紐がたれている紫の布が掛けられています。これは江戸時代の女方の鬘につきものであった、女方帽子(紫帽子とも)で、その真下にある包紙には「根元 帽子細工所 荻野」の文字が見えます。
 女方帽子は、中村座のある堺町にあった“荻野政春”の店で一手に販売されていたことが、三升屋二三治(みますやにそうじ)の「紙屑籠」に記されていますが、まさにその記述の裏付けが、この楽屋図から読み解けるのです。

半四郎の楽屋と亀三郎

 三枚続のなかに描かれている人数は、役者と裏方を含めて総勢69名。役者に関しては稲荷町の役者をのぞいた、大立者(おおたてもの)から子役に至るまでをすべて描いていますが、国貞の画面構成力の見事さが、うかがわれる作品といえるでしょう。
 実はこの作品にはもう一つ面白い話題があります。この絵のなかにも登場し、森田座の顔見世番付にまで名前が記されていた、立役の四世市川八百蔵と、女方の初世中村大吉は、何らかの事情で出勤が取りやめになり、出演しませんでした。
 ということは、本作品は顔見世番付が世間に出回る文化9年の10月下旬から、顔見世の初日の11月1日前後までに描かれたと考えることができるのではないでしょうか。

さらにひも解く「女方帽

 ここで紹介する作品は、先ほど話題に取り上げた女方帽子に関連した楽屋図です。かつら師の名工であった友九郎が、羽二重の鬘をつくり出す以前は、女方の額の生え際が美しくないことから、女方帽子をつけて額の生え際を隠し、それが女方の鬘の特色となっていました。
 今日では古風さを出すために用いられる女方帽子は、鬘に直接かけられていますが、江戸時代は役者の額に先に帽子をかけたうえで、鬘をかけました。そのことが、三代豊国の二世澤村訥升の楽屋姿を描いたこちらの作品からわかりますが、帽子の輪になっている個所を鬘に引っ掛けて固定したと考えられています。
 すでにこの役者絵が描かれた時代には、前述した女方帽子を売る荻野正春の店は廃業していたようで、大丸で紫縮緬の布を購入し、それぞれの役者が帽子をつくっていましたが、やはり荻野の帽子の方が、かけ心地が良かったと「紙屑籠」に記されています。

 訥升の傍らの鬘掛けには“片はずし”の鬘があり、打掛らしき衣裳も用意されていることから、舞台の仕度を始めるまでの時間を使って、短冊に句をしたためようとする姿を描いたのでしょう。短冊には「香につれて思ひ」と句の途中まで記されています。
 訥升の“紀伊国屋”の屋号にちなみ、“キ” “国” “の”を図案化した文様が楽屋着にあるほか、肩にかけられた手拭いには、澤村宗十郎家にちなむ“千鳥”と“観世水”が見えます。

 

「楽屋の二世澤村訥升」(がくやのにせいさわむらとっしょう)

絵師:三代歌川豊国 天明6(1786)年生~元治元(1864)年没
落款:喜翁豊国画(年玉枠)
判型:大判錦絵
刊年:文久2(1862)年1月 戌正改(改印)
版元:辻屋安兵衛
彫師:横川彫岩

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