役者絵からひも解く歌舞伎の世界 顔見世興行、“芝居国の正月” その弐 役者絵からひも解く歌舞伎の世界 顔見世興行、“芝居国の正月” その弐

 

 さて、芝居小屋への出演契約が更新される顔見世興行にあわせ、東西の役者が江戸と上方を移動しましたが、続いて紹介する作品は、人気役者の移動に伴って出版された役者絵です。
  文化文政期に東西で活躍した名優三世中村歌右衛門は、文化9年11月の大坂道頓堀の中の芝居(のちの中座)の顔見世にあわせて、5年ぶりに大坂へ帰ることとなりました。
 上方の人気役者が道頓堀に帰ってくるという前評判で、大坂の芝居街は湧き立ちましたが、そんな歌右衛門贔屓のために描かれたのが、歌右衛門の平清盛を描いた初代歌川豊国の役者絵です。


「大坂中之芝居新顔見世 平清盛 中村歌右衛門」(おおさかなかのしばいしんかおみせ たいらのきよもり なかむらうたえもん)

絵師:初代歌川豊国 明和6(1769)年生~文政8(1825)年没
落款:江戸豊国画(年玉印)
判型:大判錦絵
刊年:文化9(1812)年 「極」(極印)
版元:未詳 影弁を版元とする説もあり。


 

 平清盛が傾く夕日を扇で呼び返したという「日招ぎの清盛」の伝説は、歌舞伎でも取り上げられましたが、なかでも三世歌右衛門が文化5(1808)年11月に江戸中村座の顔見世『御摂恩賀仙(ごひいきおんがのしまだい)』で、“日招ぎの清盛”を演じた折には大変な評判となりました。
 これを受けて、5年ぶりの道頓堀へのお目見得となる、中の芝居の顔見世狂言『翻錦鶴翼袖(ひるがえすにしきのたもと)』に、「日招ぎの清盛」の趣向を取り入れることとなり、清盛を演じる歌右衛門の姿を、江戸の人気浮世絵師である初代豊国に描かせ、大坂への土産としました。初代豊国の落款(らっかん)にわざわざ「江戸豊国画」とあるのはそのためです。

 なぜか実際の上演での役名は、安芸守清のりという役名になっていたようですが(「役者出情噺」)、大坂の観客にも歌右衛門の“日招ぎの清盛”は、好評をもって受け入れられて大入りとなり、その舞台姿は「大立者(おおたてもの)と見えました」と評されました。さらにその衣裳の立派さも観客の目を驚かせたようで「衣裳の見事さに寝むたい目も覚めました」と記されています。
 このように東西の劇場で大当りをとったこともあって“日招ぎの清盛”は三世歌右衛門の当り役のひとつとなり、その没後に刊行された三代豊国の役者絵のシリーズ「国尽倭名誉 安芸」でも、歌右衛門演じる清盛が描かれています。

 


「国尽倭名誉 安芸 平相国清盛」(くにづくしやまとめいよ あき へいしょうこくきよもり)

絵師:三代歌川豊国 天明6(1786)年生~元治元(1864)年没
   二代歌川国朝 生没年未詳
落款:豊国画(年玉枠)、門人国朝画
判型:中判錦絵
刊年:嘉永6(1853)年9月 「浜」「馬込」(名主印)、「丑九」(改印)
版元:湊屋小兵衛
彫師:彫多(太田多吉)


 

 昭和11(1936)年11月東京歌舞伎座で行われた三代歌右衛門建碑記念興行においても、「日招ぎの清盛」は歌右衛門ゆかりの狂言として『厳島招檜扇(いつくしままねくひおうぎ)』の外題で、五世中村歌右衛門の清盛ほかの配役で上演されました。
 その後、上演が途絶えていましたが、平成25(2013)年の京都南座の顔見世興行で復活上演されたことは、記憶に新しいところです。
 ちなみに昭和11年の上演では、清盛の姿は初代豊国の役者絵と同様に有髪の清盛でしたが、平成25年の上演では、三代豊国の役者絵と同じく僧形の清盛でした。

 京、大坂、江戸の三都の芝居街のなかでも、江戸時代後期には、大坂の顔見世の風習がすたれ始めます。これに対して京都では1年を通じて大入りとなる顔見世興行は続けられ、京の年中行事として地位を確立していきます。
 明治39(1906)年12月、京都南座が松竹直営となって第1回目の顔見世興行が行われましたが、番付にも改めて“顔見世興行”と明示しました。
 以来、百有余年、師走の京都を彩る風物詩として定着し、いまに至っているのはご存じのとおりです。

「顔見世興行、“芝居国の正月” その壱」はこちら

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