役者絵からひも解く歌舞伎の世界 “十三代目市川團十郎白猿襲名にちなんで” その壱 役者絵からひも解く歌舞伎の世界 “十三代目市川團十郎白猿襲名にちなんで” その壱

 襲名披露狂言の一つ『勧進帳』は、七世團十郎が初世團十郎生誕190年を記念して、天保11(1840)年3月江戸河原崎座で初演した作品で、初世團十郎が弁慶を演じて大当りをとった『星合十二段(ほしあいじゅうにだん)』の復活を目指したものでした。
 初世團十郎の生年に関しては、現在では万治3(1660)年生まれで確定していますが、江戸時代には慶安4(1651)年説もあり、七世團十郎は後者の説を採っていました。
 

 続いてご覧いただく作品は、この『勧進帳』初演の舞台を描いた役者絵です。画面中央に七世團十郎(当時 五世海老蔵)演じる武蔵坊弁慶、右には二世市川九蔵(のちの六世市川團蔵)の富樫と番卒たち、左には八世團十郎の源義経と四天王たちの姿を描いています。
 この役者絵の画賛(がさん)は七世團十郎の自筆をもとにしたもので、「ありかたき 江戸の恵みの 御贔屓が 勧進てうど(ちょうど) 百九十年」とあります。
 弁慶の衣裳の水衣が現行と異なり棒縞であることや、番卒の衣裳もいわゆる軍兵の衣裳であること、四天王の衣裳も現在のものとは違うことが、この役者絵からわかります。

富樫の左衛門=二世市川九蔵、番卒兵当=初世尾上菊四郎、権当=二世大谷万作、番当=初世市川箱猿、武蔵坊弁慶=七世市川團十郎(五世海老蔵)、伊勢の三郎=初世市川赤猿、駿河の次郎=初世市川海猿、片岡八郎=初世市川黒猿、常陸坊海尊=初世佐野川市蔵、源の義経=八世市川團十郎

「元祖市川團十郎百九十年の寿歌舞妓十八番の内 勧進帳」(がんそいちかわだんじゅうろうひゃくきゅうじゅうねんのことぶきかぶきじゅうはちばんのうち かんじんちょう)

絵師:歌川国芳 寛政9(1797)年生~文久元(1861)年没
判型:大判錦絵3枚続
落款:一勇斎国芳画(年玉印)
刊年:天保11(1840)年 「極」(改印)
版元:川口屋正蔵

七代目白猿(海老印) ありかたき 江戸の恵みの 御贔屓が 勧進てうど 百九十年


参考図 『勧進帳』初演台本の表紙(右)と裏表紙(左)(国立国会図書館蔵)

 さて、『勧進帳』の初演台本は、残念ながら現存しませんが、市川團十郎家に所蔵されていたものを、明治23(1890)年に九世團十郎が複製して刊行しています。これまで“九代目團十郎本”と呼ばれてきたものがそれで、表紙、裏表紙からも『勧進帳』の初演台本の忠実な複製であることがわかります。
 さらにこの表紙から、七世團十郎が『勧進帳』を“寿狂言(ことぶききょうげん)”と位置付けていたことがわかります。“寿狂言”とは、江戸三座に伝わっていた初期歌舞伎の面影を伝える特別な演目で、各座の節目の年に上演されていました。中村勘三郎座の『猿若(さるわか)』がその代表的なものです。

 これまでの研究では、「はやまり給うな、番卒共のよしなきひが目より、判官殿にもなき人を、疑へばこそかく折檻も仕給うなり」に始まる富樫のせりふは、再演時に富樫を演じた四世市川小團次によって挿入されたと考えられていました。
 しかしこの初演台本の複製には、すでにそのせりふがあることから、従来の説は覆り、富樫の役の性根も初演の折から、強力が義経であることを知りながら、武士の情けで関を通すというものであったことがわかります。 

参考図 『勧進帳』本文(国立国会図書館蔵)※赤枠内富樫のせりふ部分

富樫の左衛門=四世市川小團次、武蔵坊弁慶=八世市川團十郎、源義経=初世坂東竹三郎

「勧進帳」(かんじんちょう)

絵師:歌川国芳 寛政9(1797)年生~文久元(1861)年没
判型:大判錦絵3枚続
落款:一勇斎国芳画(芳桐印)
刊年:嘉永2(1849)年 「衣笠」「吉村」(名主印)
版元:森屋治兵衛

画賛:「おしかへす 木戸のとがしの いさましく 大入りびらに とむる客僧 梅屋
打続く ひさしき親に あふ坂の 関を嬉しく 越る弁慶 梅屋
チヽブ 千証庵小松 やさしくも 雨にうたるゝ 若竹の のびん千尋の 根さし見えけり


 続いての役者絵は、嘉永2(1849)年3月、江戸河原崎座における『勧進帳』再演の舞台を描いた作品です。
 これを遡る天保13(1842)年、天保の改革のために七世團十郎は江戸の舞台に立つことができなくなり、活躍の場を上方に移します。
 そして嘉永2年、父の七世團十郎と8年ぶりに対面するべく、八世團十郎は大坂へと向かいます。この大坂行きは、七世團十郎が赦免される旨を内々に伝えるためのものであったと考えられています。
 大坂に旅立つお名残狂言の一つとして選ばれたのが『勧進帳』で、時に八世團十郎は27歳でしたが、大変な評判となって大入りとなりました。
 また、この舞台を観た七世團十郎の弟子の初世市川眼玉(のちの四世市川鰕十郎)は、親子とはいえここまで似るものかと感激して、涙をこぼしたと当時の資料に残っています。富樫を演じる四世小團次は、幕末の江戸歌舞伎を彩った名優の一人。また義経を演じる初世坂東竹三郎はのちの五世坂東彦三郎で、幕末から明治にかけて活躍しました。

 江戸の歌舞伎ファンにとっても、親子の8年ぶりの再会は大きな話題であり、喜ばしいできごとでありました。そのことが「打続く ひさしき親に あふ坂の 関を嬉しく 越る弁慶」という画賛にもあらわれています。
 『勧進帳』の〽これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の山隠す 霞ぞ春はゆかしける」という詞章をふまえて、逢坂の関を越える弁慶の姿と、逢坂の関を越えて父親と対面する八世團十郎の姿が重ね合わされています。

役者絵からひも解く歌舞伎の世界

バックナンバー