役者絵からひも解く歌舞伎の世界 “十三代目市川團十郎白猿襲名にちなんで” その壱 役者絵からひも解く歌舞伎の世界 “十三代目市川團十郎白猿襲名にちなんで” その壱

 嘉永3(1850)年3月、幕府から赦免されて、江戸の舞台に七世團十郎が帰ってきます。そしてその2年後の嘉永5(1852)年9月、江戸河原崎座で一世一代と銘打って『勧進帳』を上演しました。

富樫左衛門正弘=八世市川團十郎、武蔵坊弁慶=七世市川團十郎(五世海老蔵)

「富樫左衛門正弘」(とがしさえもんまさひろ)「武蔵坊弁慶」(むさしぼうべんけい)

絵師:三代歌川豊国 天明6(1786)年生~元治元(1864)年没
判型:大判錦絵2枚続
落款:豊国画(年玉枠)
刊年:嘉永5(1852)年 「馬込」「浜」(名主印)、「子九」(改印)
版元:恵比寿屋庄七


 このとき七世團十郎は、『勧進帳』の弁慶は八世團十郎に譲ったので、今回は富樫を勤めると申し出たところ、それでは一世一代の節目の舞台にならないので、弁慶を勤めるようにと再三勧められたこともあり、古めかしくも弁慶を手がける旨、口上で述べました。その上で、一世一代の証として、剃髪した坊主頭の姿を見せて、鬘(かつら)をつけずに弁慶を演じました。
 富樫には長男の八世團十郎、義経には四男の初世市川猿蔵、常陸坊には三男の七世市川高麗蔵(のちの七世海老蔵)と、團十郎一家が共演する舞台は大入りとなり、途中、休みをはさみながら、同年12月まで続演されました。

参考図 三代歌川豊国「勧進帳弁慶」 弁慶=七世市川團十郎(五世海老蔵)

 ここで紹介するのは、その一世一代の『勧進帳』に取材したもので、勧進帳を読み上げる七世團十郎の弁慶を真っ正面から描き、これを覗こうとする八世團十郎の富樫を描いた、半身像の2枚続の作品です。弁慶の視線の先には富樫の姿があり、この場面の緊迫感が役者絵を通して伝わってきます。
 七世團十郎が剃髪した姿で弁慶を演じるという情報は、初日(9月23日)近くにもたらされた情報のようで、9月上旬に出版の届を出したと考えられる役者絵(参考図)は、従来通りの姿で弁慶が描かれています。そんなところにも、役者絵をよみ解いていく楽しみがあります。


 さて最後に取り上げるのは、明治20(1887)年4月26日、時の外務大臣井上馨邸で行われた天覧歌舞伎で上演された『勧進帳』を描いた作品です。

富樫=初世市川左團次、弁慶=九世市川團十郎、義経=四世中村福助

「與衆同楽」(よしゅうどうらく)

絵師:豊原国周 天保6(1835)年生~明治33(1900)年没
判型:大判錦絵3枚続
落款:豊原国周筆
刊年:明治20(1887)年 「御届明治廿年 月 日」
版元:浅野金之助

與衆同楽 明治廿年四月麻布鳥居坂井上大臣之御邸ニテ御覧演劇ノ内勧進帳


 洋装の明治天皇と、和装の皇后(昭憲皇太后)を中心に、大勢の女官たちが詰めかける客席を遠景として描き、九世團十郎の弁慶、初世市川左團次の富樫、四世中村福助(のちの五世中村歌右衛門)の義経が居並ぶ舞台の様子を描いています。
 この頃には、弁慶の衣裳の水衣が現行の黒地に金の梵字を散らしたものになっていたことがわかります。
 明治天皇と皇后が麻布鳥居坂の井上邸に行幸啓して、『勧進帳』を観劇したようにこの作品では描かれていますが、実際のところは、明治天皇は4月26日に行幸、皇后は翌27日に行啓し、上演された演目も異なっていました。

 九世團十郎によると、左團次、福助ともに緊張のあまりにガタガタとふるえ、自身も明治天皇の玉座と舞台までが、約7メートルほどしか離れておらず、舞台に出ると自然に頭が下がり、勧進帳を読むまでは大変苦しかったと回想しています。
 画題の「與衆同楽」とは、民衆とともに楽しみを同じにするという意味で、井上邸の仮設舞台の天幕にこの文字が縫い取られていました。

 歌舞伎の地位向上に大きな役割を果たした明治の天覧歌舞伎から120年の節目にあたった、平成19(2007)年4月、井上邸の跡地に建つ国際文化会館で、『勧進帳』を十二世團十郎の弁慶、十三代目團十郎白猿(当時 海老蔵)の義経、尾上菊五郎の富樫の配役で上演し、時の天皇、皇后両陛下が観劇されました。

「十三代目市川團十郎白猿襲名にちなんで」その弐は12月に公開予定です。

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