役者絵からひも解く歌舞伎の世界 “十三代目市川團十郎白猿襲名にちなんで” その弐 役者絵からひも解く歌舞伎の世界 “十三代目市川團十郎白猿襲名にちなんで” その弐

 約3カ月の療養を経て、迎えた嘉永4年9月9日、初日の幕を開けた江戸市村座は、八世團十郎の病気全快のお目見得興行となりました。
 その折に上演された『源氏模様娘雛形』の二幕目では、身を投げた平野屋徳兵衛が、成田不動の羂索の縄によって川の中から引き揚げられて、蘇生する場面がありました。これは八世團十郎が成田不動の利益で病から本復したことを、取り込んだ趣向でした。
 まさにその場面を描いたものがこの役者絵で、成田不動と平野屋徳兵衛を2役早替りで八世團十郎が演じました。八世團十郎の人気はもとより、話題性も相まってこの興行も大入りとなりました。
 なお不動明王の火炎光背や、制多伽童子の顔や胴体が黒みがかっているのは、この部分に使用された朱色に含まれている鉛が酸化したためです。

矜羯羅童子=初世坂東しうか、成田不動の霊像=八世市川團十郎、平野屋徳兵衛後ニ本町丸綱五郎=八世市川團十郎、制多伽童子=二世市川九蔵

「源氏模様娘雛形」(げんじもようむすめひながた)

絵師:三代歌川豊国 天明6(1786)年生~元治元(1864)年没
判型:大判錦絵横絵
落款:豊国画(年玉枠)
刊年:嘉永4(1851)年 「村松」「福」(名主印)
版元:小林泰治郎


 次にご紹介する役者絵は、八世團十郎の助六を描いた役者絵ではあるのですが、出版検閲の証である改印をよく見ると「卯正」とあり、安政2(1855)年1月に出版許可を得たことがわかります。しかし、八世團十郎は前年の安政元(1854)年8月6日、大坂の地で急逝しており、実際の舞台に取材した役者絵ではありません。
 そして意休の似顔を見ると、こちらは初世松本錦升(六世松本幸四郎)の似顔で、揚巻は七世岩井半四郎の似顔になっています。いずれもこの役者絵が刊行されたときには、故人となっている役者ばかりです。

ひけの伊久=初世松本錦升、花川戸の助六=八世市川團十郎、三浦屋揚巻=七世岩井半四郎

「助六廓の花見時」(すけろくくるわのはなみどき)

絵師:二代歌川国貞 文政6(1823)年生~明治13(1880)年没
判型:大判錦絵3枚続
落款:一寿斎国貞画、梅蝶楼国貞画
刊年:安政2(1855)年 「卯正」「改」(改印)
版元:釜屋喜兵衛
彫師:彫竹(横川竹二郎)


 実はこの役者絵は、安政2年1月に浅草寺裏の奥山で興行された、竹田縫之助の細工による八世團十郎の生人形(いきにんぎょう)の見世物に取材した作品なのです。
 この生人形とは、生きるがごとき写実性を重視した等身大の人形で、幕末から明治にかけて見世物の一ジャンルを形成し、大変な人気を集めました。例えば現在でも歌舞伎、文楽で上演されている『壺坂霊験記』は、生人形の見世物「西国三十三所観音霊験記」の人気を受けて成立した作品です。文化人類学の観点からも生人形は注目され、アメリカのスミソニアン自然史博物館、オランダのライデン国立民族学博物館をはじめとした欧米の博物館に収蔵されました。

 当時、江戸三座が類焼のために休座中であったことや、浅草寺の開帳も相まって、この見世物は大当りとなり、連日大勢の観客が詰めかけました。そして見世物としては異例の120日間の興行となり、1500両の利益を上げたとも伝えられています。(伊原青々園『市川團十郎の代々』)
 そのなかでも眼目となっていたのが、ここに描かれている『助六』の舞台を再現したもので、八世團十郎の助六、六世幸四郎の意休、七世半四郎の揚巻という配役は、弘化元(1844)年に八世團十郎が初役で助六を演じた折の配役に基づくものです。 

 題名の周囲を竹の模様で囲んでいるのは、細工人の竹田縫之助にちなむものと考えられます。また、禿が手にする羽子板には、八世團十郎の当り役の一つであった、『田舎源氏(いなかげんじ)』の足利光氏(あしかがみつうじ)がその似顔で描かれています。もう一人の禿は、三升格子の着物を着る抱き子人形を持っていますが、いずれも八世團十郎の人気をうかがわせる品々です。

羽子板 拡大図
抱き子人形 拡大図

役者絵からひも解く歌舞伎の世界

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