役者絵からひも解く歌舞伎の世界 “十三代目市川團十郎白猿襲名にちなんで” その弐 役者絵からひも解く歌舞伎の世界 “十三代目市川團十郎白猿襲名にちなんで” その弐

 続いての作品は、代々の團十郎を描いた5枚続の大作「擬九星市川系譜」です。7世紀頃に中国で生まれ、現在でも吉凶を占う方法として親しまれている九星術の“九星”と、九人の團十郎の“九世”をかけて、代々の團十郎をそれぞれの星に見立てた役者絵です。

「擬九星市川系譜」(なぞらえきゅうせいいちかわけいふ)

絵師:落合芳幾 天保4(1833)年生~明治37(1904)年没
判型:大判錦絵5枚続
落款:芳幾(印)
刊年:明治27(1894)年 「明治廿七年七月 日印刷仝年 月 日発行」
版元:秋山武右衛門
彫師:山本刀(山本信司)


上段 初世團十郎、下段 二世團十郎

「一白に擬ふ元祖が象引の白眼」

 1枚目上段の初世團十郎は、歌舞伎十八番の一つ『象引』の主人公である山上源内左衛門役で描かれています。一白から連想された白眼とは、初世團十郎の“にらむ”演技を指したものです。

「二黒に擬ふ二代目が大伴の黒主」

 下段の二世團十郎は、“黒”つながりで、天下を狙う大悪人の大伴黒主になっています。二世團十郎は黒主を演じたことがあり、所縁ある役ではあるのですが、斧の柄が見えることから、『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』の黒主とわかります。実は『関の扉』は二世團十郎没後の初演ですが、黒主で最も認知されていることもあって、この姿で描かれたのでしょう。

上段 三世團十郎、下段 四世團十郎

「三碧になそらふ三代目が鳴門の渦丸」

 2枚目上段の三世團十郎は、碧の訓読みの“あお”から海を連想させ、櫂(かい)を持つ船頭姿で描かれています。厚司(あっし)に柿色の丸首、筒袖の着物の扮装は、天竺徳兵衛を思わせるものですが、三世團十郎とは全く縁のない役柄です。
 鳴門の渦丸は、河竹黙阿弥の『宝来曽我島物語(ほうらいそがしまものがたり)』に海賊として登場する人物で、芳幾の着想はこの作品に拠ったものと推測されます。

「四緑に擬ふ四代目が景清の隠刀」

 下段の四世團十郎は、四緑と仕込み杖(隠刀)の竹の色目の“緑”つながりで、屈指の当り役であった悪七兵衛景清になっています。身をやつしたその姿、仕込み杖を持つことから、源頼朝の命を狙おうとする場面の景清です。

上段 五世團十郎、下段 六世團十郎

「五黄に擬ふ五代目が圯橋(いきょう)の石公」

 3枚目上段の五世團十郎は、黄石公(こうせっこう)の姿で描かれています。中国下邳(現在の江蘇省)の圯橋で、黄石公が自らの靴を張良に拾わせた末に、兵法書「六韜三略(りくとうさんりゃく)の巻」を与えたという伝説は、日本でも広く知られたものでした。
 元禄14(1701)年1月江戸中村座で、初世團十郎が自作自演した『傾城王昭君(けいせいおうしょうくん)』にこの伝説が取り入れられており、初世團十郎が黄石公役を勤め、初世九蔵(のちの二世團十郎)演じる山上八王に軍略を授ける場面がありました。
 これをふまえて、五世團十郎を黄石公にしたのでしょう。また、この図をよく見ると、顎鬚(あごひげ)を持った“関羽見得(かんうみえ)”の形になっています。

「六白になそらふ六代目が白酒の新平」

 その下段には“白”つながりで、六世團十郎を『助六』の白酒売新兵衛で描いていますが、実際にこの役を演じたことはありませんでした。

上段 七世團十郎、下段 八世團十郎

「七赤になそらふ七代目が南山(なんざん)の鍾馗」

 4枚目上段の七世團十郎は、赤からの連想で朱鍾馗(しゅしょうき)にしています。鍾馗もまた團十郎家にゆかりある役で、『参会名護屋(さんかいなごや)』の大詰で、初世團十郎が鍾馗を勤め、悪人たちを退散させる荒事を見せました。
 七世團十郎は、朱鍾馗を演じたことはありませんが、芳幾の師である歌川国芳の摺物に、七世團十郎の似顔で描いた朱鍾馗があることから、そこからの着想と考えられます。

「八白に擬ふ八代目が白浪の主魁」

 下段には白と盗賊の異称である白浪を結び付けて、八世團十郎をその当り役の一つ『児雷也豪傑譚語(じらいやごうけつものものがたり)』の主人公児雷也の姿で描いています。なお“主魁”とは、首領の意味です。

九世團十郎
「擬九星市川系譜」5枚目 部分

「九紫に擬ふ九代目が助六の鉢巻」

 そして5枚目には、“紫”つながりで、九世團十郎の助六を描いています。
 絵師の芳幾は『花江都歌舞妓年代記(はなのえどかぶきねんだいき)』の挿絵や、過去の役者絵を参考にして、初世團十郎は鳥居派の、二世團十郎、四世團十郎、五世團十郎は、勝川派の似顔描写の特色を押さえながら、それぞれを描いています。

 5枚目上段には歴代團十郎の略歴の文章がありますが、四世團十郎の出自に関して「四世 二代目の実子」と記されています。この説は、今日では定説に近いものになっていますが、これが公にされたのは明治35(1902)年に刊行された伊原青々園の『市川團十郎』が最初と考えられていました。しかしこの作品の略伝がそれをさらに8年遡ることになります。
 略伝を記した山田春塘(やまだしゅんとう)は、文久元(1861)年生まれ。本名を伊之助と言い、万朝報の記者として活躍する一方で、歌舞伎や演芸、相撲に関しての著述を残し、明治42(1909)年に没しました。
 伊之助の生家は、徳川家御用の魚問屋で、実父は茶屋伊之助と称した人物でした。ちなみに茶屋伊之助は、芳幾の師である国芳の長女お鳥(絵師名・歌川芳鳥)の夫でもありました。山田春塘の実母に関して詳しくわかってはいませんが、国芳の孫にあたる可能性もあります。
 團十郎家と魚河岸との強いつながりを考えると、山田春塘は、伊原青々園に先んじて、四世團十郎の出自に関しての新知見を知りうることができたと考えても間違いではないでしょう。

役者絵からひも解く歌舞伎の世界

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