二世中村太郎

 二世中村成太郎の子。大阪で生まれる。昭和十七年、父の前名太郎の名で、大阪歌舞伎座で初舞台。戦中戦後の折から、十分な活躍は出来なかったが、二十四年、次代の関西劇壇を受け継ぐべく、技芸を磨こうという意図でで結成された<つくし会>に参加した。嵐鯉昇(後の北上弥太郎)、市川莚蔵(後の市川雷蔵)などの中にあって、リーダー格であった。

 同じ年の十二月、歌舞伎再検討を目指したいわゆる<武智歌舞伎>の第一回公演にも加わり、坂東鶴之助(現中村富十郎)の『熊谷陣屋』では妻相模を、翌年の第二回公演では、實川延二郎(後の三世延若)の『俊寛』に丹波少将をつとめている。

032.jpg

 勉強次第では、順風を受けられる位置にいたのだけど、私行でつまづいたのが元で、健康を損ない、昭和二十八年頃から、長期休演を余儀なくされた。三十一年、吉野恵美蔵の名で、新春座に加入して舞台に復帰し、三十二年八月、曽我廼家十吾の<家庭劇>の旗上げに参加した後、昭和三十三年、やっと歌舞伎に戻った。関西劇壇の中堅として期待され、事実<つくし会>の後を受けた若手の勉強会<松竹演劇塾>では、『忠臣蔵』の由良之助、『尼ヶ崎』の光秀、『河庄』の孫右衛門などの数々の座頭役を、相応の出来でこなす力量を見せた。

 しかし、三十代の後半、関西歌舞伎が不振の期に入り、若手俳優は自主公演の型でしか発表の場を持てなくなってくると共に、気力、意欲が充分でなかったのだろうか、次第に後輩の後麈を拝するようになった。終わりには市川猿之助の一座に加わることが多く、昭和六十三年十一月、大阪新歌舞伎座の猿之助公演の脇役で、一寸顔を見せたのが、最後の舞台になった。

 思えば、父の名成太郎は元より、直系の大名跡中村魁車の名を継ぐべき地位と実力を持ちながら挫折したのは、この人の心と身体のひ弱さの故であったと云わなければならないのは、如何にも辛い。秀樹、成記という二人の子がいて、子役として一時活躍したのだけれど、何時か廃業し、上方でおなじみの新駒家の名も絶えた。


(昭和三年1928~平成元年1989)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。