二世中村成太郎

 東京深川の生まれ。生家は玩具の楽焼を製造販売する浅草仲見世のむさし屋であった。市川介十郎の門に入り、明治四十三年、市川介六の名で、本郷座で初舞台を踏む。

 明治四十五年、新富座で初世中村鴈治郎一座に加入し、『寺子屋』の菅秀才を勤めたのが縁となり、大正二年、大阪に移り、中村成太郎(後の中村魁車)の養子となり、中村太郎を名乗るが、大正四年、養子縁組を解消し、改めて門弟となる。

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 大正十年十月、中村で師の前名成太郎を二代目として襲名する。美しく、行儀の良い舞台で、上方役者らしくない清潔で粘り気の無い芸風がかえって好まれ、周囲の期待も大きく、花形役者としての地位を固めていった。二世延若の帯屋の長右衛門で、お半を勤めるなどという大役もあったが、取り分けて中村扇雀(後の二世鴈治郎)の相手役として用いられ、『封印切』の梅川等で評判を取り、贔屓も多かった。邦劇座・五色座・同士座・第一劇場・次の時代の会等の新しい研究劇団にも積極的に加わり活躍する情熱も見せた。

 しかし、生来の病弱がこの人の不運で、昭和二十七年からの長期休演から、復帰休演を繰り返すようになった。依然としてファンの支持は強く、仁(にん)に合った役-新作物に案外多かった-では、得がたい味を見せたものの、次第に往年の覇気が失せ、辛うじて『封印切』や『吉田屋』の内儀役で存在感を示すに止まった。老け役はうつらず、晩年の『すし屋』の婆などでは、戸惑いがちだった。おっとりとした役者らしい性格だったが、反面意固地な面も合わせ持っていた。病気と当時の歌舞伎不振が重なり、休演が多かったが、自宅で沢山の小鳥を飼うのに没頭しているように見せていた。

 早くに魁車を襲ぐべき地位にありながら、大成しなかったのは、自他ともに残念である。それにしても、昭和五十二年十一月、中座の『忠臣蔵』の七段目の仲居が最後の舞台となり、三年後に世を去ったのは、若い頃の花形時代を思うといかにも淋しい。

(明治三十三年1900~昭和五十五年1980)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。