五世嵐璃珏
明治三十三年、大阪で生まれる。名人とうたわれた四世嵐璃?の甥。後に養子となる。六歳の時、大阪弁天座で本名勝之助を芸名として『不如帰』の漁師の子の役で初舞台を踏む。
子役の頃、大怪我をし役者嫌いになり、大阪府立今宮中学を卒業後、銀行に就職したが、大正二年、舞台に戻り、五世?蔵を襲名、中村扇雀(後の二世鴈治郎)を中心とした"青年歌舞伎"に加入し、二枚目として人気を集めた。
青年歌舞伎は京都明治座(後の京都松竹座)で八年間常打ちしたが、扇雀が父鴈治郎一座に加わる事が多くなり自然解散になり、折りからの新興キネマの誘いを受け、三年契約で映画入りをし、若手スターとして活躍した後、松島八千代座に入り大歌舞伎には無い珍しい小芝居の狂言も経験する。
二世市川右團次と片岡我童の尽力で大歌舞伎に復帰してからは、関西の歌舞伎の各座で勤め、脇役としての地歩を固めていった。昭和二十年三月、中座の『太閤記 十段目』の久吉で、五世璃?を襲名する。その月の十四日早暁、大空襲で中座が焼け、襲名興行は半月しかできなかった。
面長な古風なマスク、やや重い独特の科白廻し、そして身体全体についた上方の味はすこぶる貴重で、若い頃演じた数々の芯の役の経験が生き、役所を心得た上方歌舞伎そのもののような脇の役々を見せた。技量よりむしろ仁でみせ、役を生かす役者で、身についた二枚目や、三枚目の面白さは独自のものであったが、晩年の老け役の味も忘れ難い。『忠臣蔵』の伴内、『天網島 炬燵』の舅五左衛門、老女方では、『引窓』の母お幸など、他には求められない風味があった。中村歌右衛門に招かれて演じた『二人夕霧』の弟子では、上方風の三枚目ぶりで瞠目させた。人柄の故か、敵役では押しが足りず、本人も好まなかった。
昭和五十五年南座の顔見世で、これも持ち役にしていた『曾根崎心中』の天満屋主人に扮していたが、中日に倒れ、その月末、不帰の人となった。子の?蔵は早くから廃業しており、上方の名門豊島屋(てしまや)は絶えた。
(明治三十三年1900~昭和五十五年1980)
奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)
昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。
脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。
関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。