十二世片岡仁左衛門
十代目仁左衛門(三世我童)の子。浅草今戸で生れる。明治十八年、東京千歳座で本名東吉の名のままで初舞台を踏む。土之助を経て、三十四年、四世我童を襲いだ。昭和十一年一月、東京歌舞伎座で「馬切」の織田信孝を勤め、十二世を襲名する。
容姿、特に眼が美しく、やや含みがちの口跡ながら調子も良く、娘方、二枚目の範囲での芸域は広く、阿古屋、朝顔の深雪、お染、櫻時雨の吉野太夫、そして立役では、伊左衛門、松平長七郎、躄勝五郎「鮨屋」の弥助などの当り役では、他の追随を許さなかった。鷹揚な品位は独特のもので、新歌舞伎でも「頼朝の死」の頼家は高く評価されている。
反面、どことなく冷たさと暗さのある芸風であったが、六世梅幸没後の十五世羽左衛門の相手役の位置に坐ってから、明るさが舞台に出るようになった。三千歳、十六夜、お富など、江戸前の役々をこなし、玲瓏とした色気を見せたが、誠実な生世話物の味が出にくかったのは、やはり性格的な冷たさによるものであろうか。
昭和二十一年三月、付人であった狂言作者との齟齬から、東京で不慮の死を遂げた。終戦直後の社会不安がうんだ悲劇だった。享年六十五歳。従って戦後、大阪の舞台で姿を見ることは無かった。十四世仁左衛門を追贈された五世我童、市村吉五郎※、片岡芦燕はその子である。
(明治十五年1882~昭和二十一年1946)
※「吉」の字は「土」に「口」の字が正しい。
奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)
昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。
脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。
関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。