二世中村梅玉
大阪風のふっくらした容貌と、立派な押出しを持っていた。立役も女形も演じたが、最高の当たり役は日蓮上人だったと言われている。芸域は広いのだが、いささかもアテ気のない芸味で、根が良い人だっただけに、悪人とか気の強い役には不向きで、ほのぼのとした人情味、情愛は得難いものだった。
京都五條坂、鋲鍛冶屋の家で生まれた。幼くして大阪に出、子役として初舞台を踏んだ後、子供芝居を廻っているうちに、次第に大劇場でも認められるようになり、嘉永三年、三世芝翫の実子玉七の門人となったのが縁で、明治元年、三世中村福助を襲名した。当時の人気はすばらしいもので、一方の若手花形嵐橘三郎と火の出るような競走をした。二人はどちらを勝るとも云えない好敵手で、技芸の争いは人気の争いとなり、地位の争いとなった。明治初年の上方劇壇を代表していた延若(初世)宗十郎の後に、大阪で覇を制するのは、福助か橘三郎のどちらかと思われていた。
明治二十七・八年頃、前代の名優が相次いで没した後、座頭の地位は当然福助に廻って来、事実番付面では中村鴈治郎の書き出しに対し、座頭の位置に据わっていたが、鴈治郎に花形として実質上の座頭を譲っていた。以後三十年近く、鴈梅一座の支えとなり、鴈治郎を盛り立てた。鴈治郎の代表芸「河庄」では、毎度孫右衛門を演じ、弟への温情が溢れ、治兵衛の兄への感情も沁みでて、鴈治郎も之を得てこそ一層光っていた。
明治四十年、六十七歳で、三世中村歌右衛門の俳号を襲ぎ、二代目中村梅玉となり、養子政次郎を四代目福助にし、鴈治郎の相手役に育て上げ、鴈治郎一座の長老として老後を全うした。
神戸での興行中、入浴していた朝風呂で昏倒し、八十一歳の高齢で没した。
(天保12年1842年~大正10年1921年)
奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)
昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。
脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。
関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。