二世實川延若

 初世延若の長男として、大阪難波新地で生れる。父延若は、息子に役者を継がせる気が無く、楽屋に出入りする事さえ禁じていた。九歳の折、父の死に逢い、明治十九年三月、道頓堀戎座の中村宗十郎一座で、實川延二郎を名乗り、初舞台を踏む。劇界の孤児に等しい境遇に同情し、十一世片岡仁左衛門が後立てとなる。

 京都での子供芝居、東京での修行を経て、大阪に帰り、浪花座で仁左衛門の八右衛門で「封印切」の忠兵衛を勤め、大阪若手俳優随一の上手として人気を博す。

 明治四十三年、松竹の東京進出第一回興行の新富座に出演、「油地獄」の與兵衛が絶大な好評を受け、座頭としての重責を果たして帰阪、名声いよいよ上がり、大正十四年十月浪花座の鴈治郎一座で「鐘もろとも恨鮫鞘」を披露狂言として、二世延若を襲名し、鴈治郎に次ぐ上方代表俳優としての地位を確立する。

 芸域は、超人的と云って良いほど広く、時代と世話両面において、立役、二枚目、実悪は勿論、時には三枚目も老役も、女形すら行く所可ならざるは無く、さらに生粋の上方役者でいながら、江戸狂言にも意欲を示し、立派な成果をあげている。その上、新作、新派劇、翻訳劇にも腕を見せ好評を博している。まことに器用な役者でいて、本質を失わず、本来の領域で、真似ての無い所に延若の本領がある。即「夏祭」の団七、「油地獄」の與兵衛、「鮨屋」の権太、「雁のたより」「乳貰い」「鐘もろとも」などは、独壇場である。

 常にライバルであると同時に、或る意味では十分な芸の発揮を押さえられていた、鴈治郎の没後、いよいよ第一人者としての活躍を自他ともに期するところ大きくなった折、既に六十路にかかり、健康が万全でなかった所に、延若の悲運があった。

 それでもその後の上方劇壇のリーダーとしての役目は十二分に果たした。特に終戦後、「沼津」の平作などの老役で、歌舞伎味の豊かな巧緻な芸を見せ、「楼門」の五右衛門や、「襤褸錦」の治郎右衛門等で錦絵のような歌舞伎美と重厚さで、復興途次の歌舞伎界を魅了した。

 昭和二十五年、芸術院会員に推されたが、翌年、七十五歳で没した。最も典型的な最後の上方役者であり、そして大きな歌舞伎役者であった。

(明治十年1877~昭和二十六年1951)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。