五世中村福助(高砂屋)

 明治四十三年、大阪の南区東清水町で生まれる。父は四世中村福助(後の三世梅玉)。大正五年五月、大阪・中座で、中村政治郎を名乗り初舞台。初世鴈治郎一座で修業し、研究劇団「技芸座」や「古典座」など若手の勉強芝居で活躍した。昭和十年十月中座、父の梅玉襲名とともに五世福助を襲ぐ。

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 翌十一年、東宝劇団に参加したが、十五年松竹に復帰し、関西歌舞伎に在籍した。戦後、父梅玉の没後、初世吉右衛門に引きたてられ、東京に移った。

 温和な性格で、l高砂屋の御曹司として鷹揚な芸風を忠実に受けついだが、立派な体格と歌舞伎役者らしい大きな顔立ちが目立ち、祖父梅玉の滋味、父の情趣とは異なり、大味だが立役畑で風格を見せた。吉右衛門劇団に所属してからは、敵役を専らにし、江戸狂言もそれなにりこなしたが、何か今一つピッタリせず、物足りなかったのは、高砂屋の風と役柄が合わず、生粋の上方役者としては、やはり場が違ったからであろう。

 晩年大阪に来る機会も多くなり、「七人の会」にも喜んで参加し、水を得た魚のように生き生きとした舞台をみせた。歌舞伎役者の中で、唯一の楳茂都流の名取で、珍しい所作事も演し物として披露したが、二世鴈治郎の相手で演じた『封印切』の八右衛門や『土屋主税』の大髙源吾、三世延若の『炬燵』の孫右衛門など、芸格も大きく、上方役者そのものの和(やわ)らか味もあり、大阪の芝居にどっしりとした存在感を示した。

 昭和四十年秋、九州地方の巡業で『寺子屋』の源蔵が廻ってきた。松王丸は十三世仁左衛門。源蔵は初役だった。大張りきりで早くから準備工夫を怠らなかったのだが、前月から腰を痛め、やっと乗りこんだ巡業地別府では、稽古さえできず、初日には何としてでも出たいという願いも遂に叶わず、その後ずっと別府で療養を続けなければならなくなった。そして、一年あまりの闘病の後、やっと帰った東京の自宅で寝ついたまま、再び舞台に立つ事は無かった。大器、ようやくこれからと言う時に、力倆を発揮出来なかったのは、口惜しかったであろう。まことに残念だった。

 明治以来三代続きで、大阪(高砂屋系)・東京(成駒屋系)で並立していた中村福助の名は、この高砂屋福助の退場で、大阪では絶えた。

(明治四十三年1910~昭和四十四年1969)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。