二世林又一郎
明治二十六年、大阪市南区玉屋町で、初世中村鴈治郎の長男として生まれる。明治三十三年三月、大阪中座『本朝出世艦』の一子捨松役で、本名林長三郎を芸名として初舞台。以後、ずっとその名で通してきたが、昭和十七年、大阪歌舞伎座で林又一郎を襲名する。これは、初世鴈治郎の母方の祖先が、出雲のお国と同じ頃の、京都四条河原の女歌舞伎の太夫元林又一郎だという縁で、祖先の名を世に出したのである。
父鴈治郎一座にあって、本領とした二枚目、若衆役では他の追随を許さず、特に所作事舞踊に勝れ、関西一の踊り手といわれ、東京の名人上手とも肩を並べた。若い頃は清新な意欲に溢れ、大正十二年、研究劇団「五色座」を主宰し、新しい感覚を見せている。
父そっくりの風姿を受け継ぎ、その没後は面影を伝える役所に期待をかけられながら、健康に恵まれず、十分に資質を生かしきれなかった。将来を嘱目されていた息子敏夫を戦争で失い、気力も衰えたのであろうか、総領の風格を備えながら、鴈治郎の名も弟に譲った。そして、孫与一の成長を楽しみとする晩年であった。
昭和三十四年、明治三十九年以来松竹経営の京都南座顔見世興行の最多出演俳優として表彰を受けたが、四十一年、同じ顔見世に『時平の七笑』の菅原道真役で出ることになっていたが、身体の不調で休演せざるを得なくなり、その暮れの大晦日に亡くなった。正月前の事であり、追悼記事も少なかった。
傍目には悲運の役者とも見えるが、ご本人は終始鷹揚ににこやかに舞台を勤めていた。温厚篤実、長者の風格を備えた役者らしい役者であった。
もとより和事二枚目や所作事の役々に傑作が多かったが、『傾城反魂香 吃又』の又平を特筆しておきたい。写実な熱演でいながら、独特の歌舞伎味が溢れ、弟弟子に追い越され、師匠からも見放された、哀愁が見事に表現されていた。
又一郎こそ、持って生まれた上方和事の骨法を生かし、克明な写実芸で独特の上方の芸を凝集させた真性の、そして絶後の上方やくしゃ※であった。
※原文では「上方やくしゃ」に傍点あり。
(明治二十六年1893~昭和四十一年1966)
奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)
昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。
脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。
関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。