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上方歌舞伎・想い出の俳優



十三世片岡仁左衛門

 十一世片岡仁左衛門の三男。東京日本橋の生れ。明治三十八年、京都南座で、千代之助の本名で初舞台を踏む。「片岡少年俳優養成所」や、研究会「古今座」で、父の指導を受ける。昭和四年四月、歌舞伎座、『堀川』の伝兵衛で、四代目我當を襲名。七年、新宿歌舞伎座で「青年歌舞伎」を結成、座頭として数々の大役を手がける。

 昭和十四年、大阪に移り、以後関西歌舞伎の中軸として活躍する。昭和二十六年三月、大阪歌舞伎座で、十三世仁左衛門を襲名する。三十年代に入り、関西歌舞伎が興行的な衰えを見せるが、ずっと関西を離れる事はなかった。

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 上方歌舞伎の伝承を志す「七人の会」を二世中村鴈治郎と結成したが、同人の中でも最も積極的な活動を見せた。「七人の会」の終った後は、自主公演「仁左衛門歌舞伎」を立ち上げ、本興行の激減した関西で、孤軍歌舞伎の灯を絶やさぬ奮闘を続けた。そんな努力の甲斐あって、四十年代に入って、ようやく上方歌舞伎復調の兆しが見えはじめ、東京でも実力を認めさせる機会が増えてきた。

 四十四年の紫綬褒章受章を皮切りに、栄誉を重ね、遂に人間国宝、芸術院会員にいたり、歌舞伎役者として最高の晩年を迎えるが、すべて高潔な人格と、芝居一筋、たゆまぬ精進努力の賜と言えよう。

 風姿に優れ、知識、経験が豊富で、立役の総ての役柄を良くするが、本領は片岡家伝来の二枚目だったのではなかろうか。ともあれ、領域が極めて広く、また年代によって評価がたいへん異なった人で、当り役を上げるのに迷うのだけれど、あえて働き盛り、壮年期の三役を数えて見る。

 『夏祭浪花鑑』の団七、手一杯の熱演で、泥絵具で書いたような芝居を見せ、大阪の風土を匂い立たせた。『ちょいのせ』の善六、技巧たっぷりに、こしらえた芝居の面白さを満喫させた。『吉田屋』の伊左衛門、粋で風雅、薫り立つような若旦那ぶりで、歌舞伎の華を開かせた。そして、最晩年『菅原伝授手習鑑』の菅丞相で、神品と言われる域にまで達した。

 当代仁左衛門、我當、秀太郎が、今日の歌舞伎の支柱になっているのは言うまでもなく、上方の後進の指導育成につとめた功績も大きい。数多くの著書、取分けて、上方歌舞伎についての著述は、歌舞伎の貴重な遺産である。

 平成五年十二月、南座の顔見世に四十一年連続で出演し、『八陣守護城(はちじんしゅごのほんじょう)』の正清を、それも初役で勤めたのが、最後の舞台となった。齢(よわい)九十歳。芝居にかける情熱では、誰よりも若かった。二歳の初舞台から、八十八年間、歌舞伎の花形役者であり続けた。


(明治三十六年1903~平成六年1994)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。

上方歌舞伎・想い出の俳優

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