上方歌舞伎・想い出の俳優



初世中村鴈治郎

 明治中期以後大正・昭和をかけて上方歌舞伎の代表者である。単に上方に止まらず團菊以後の歌舞伎に一時代を画した名優で、大阪の顔として大阪の人に愛され、四十年余、常に劇界第一の座に座り続けた「大きい役者」である。芸風・風貌その他あらゆる点で上方歌舞伎そのものと言ってよい。
 中村宗十郎・初世實川延若の長所を融合して完成させた上方和事を代表芸とするが、風格のある時代物の立役や、新作物にも独特の鴈治郎風を見せた。

 万延元年、大阪新町の揚屋扇屋の一人娘と三世中村翫雀の中に生れた。翫雀が江戸に去った後、維新の新令によって扇屋は没落し、母子は生活の手立てを失った。苦労の末、初世延若の門に入り、實川雁二郎の名を貰った。初舞台は明治六年とされている。

 明治七年の秋から一里場芝居(旅回りの一座)を経験した後、京へ上り、ようやく新人らしい活躍の場を得、根が熱心な上に素質が優れていたので、次第に娘形や二枚目で後年の片鱗を見せだした。明治十一年、東京から戻った父翫雀と親子の対面をし、實川の姓を延若に返し、以後中村鴈治郎を名乗って遂に一生この名で通し、一代で日本一の大名題に仕立て上げた。

 その後の活躍、出世は目覚しく、師延若、私淑していた宗十郎の没後は、名実ともに上方劇壇の第一人者に上り詰めていったが、強敵片岡我當(後の十一世仁左衛門)が東京より戻って来、明治二十一年以後、火の出るような角逐を演じた。そして明治三十九年、京都より大阪に進出してきた松竹の白井松次郎という名伯楽を得て、完全に劇界を制覇した。

 大正期には、芸域を磨き上げると共に、当時としては新しい感覚である新作世話狂言を次々と手がけた。仁左衛門との確執も解け、大正十二年の顔見世で目出度く共演している。

 昭和に入ってからも、何時までも若々しく、冴えかえった芸を見せていたが、昭和九年、病をおして出演した京都の顔見世の四日目から休演し、年を越した二月一日、遂に逝った。

 太陽のように輝いた鴈治郎。没後もその影は上方劇壇に大きく投影している。上方歌舞伎の二十世紀は、鴈治郎の世紀でもあったといってよい。

(万延元年1860年~昭和十年1935年)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。

上方歌舞伎・想い出の俳優

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