上方歌舞伎・想い出の俳優



二世中村鴈治郎

 大阪島の内の玉屋町で、初世鴈治郎の三男として生まれる。五歳、明治三十九年十二月南座の『太平記忠臣講釈』で、本名好雄で初舞台を踏む。四十三年十一月、大阪中座で扇雀と改名。大正四年、角座で父の指導で少年歌舞伎が始まり、八年、青年歌舞伎の旗上げへと続く。
 
 京都南座を本拠とし、鴈治郎の当り芸を次々と手がけ、父そっくりの舞台姿で熱烈なファンの支持を集める。この間には、有名狂言ばかりではなく、上方の珍しい演目も取り上げている。小芝居風の演し物(だしもの)の幾つかが、辛うじて今日残っているのもこのお蔭である。

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 大正末になると人気に溺れることを自戒し、父の一座に戻り、修行の再スタートを志す。昭和十年、不世出の名優父鴈治郎を失う。十六年十月角座で、祖父の名跡翫雀を四代目として襲名する。同じ年、第二次世界大戦が始まっている。

 戦後直ぐの二十二年、四十五歳、鴈治郎の十三回忌を期して、二代目を襲名し、大阪の名を蘇らせた。この頃より青年期の派手で達者な芝居を抑え、リアルさを芯にし、内面を充実させてゆく芸風に昇華させてゆこうとしている。三十年、突然歌舞伎界を引退すると声明し、大映に入る。映画の世界でも数々の名演技を残している。舞台で写実を追及するのに、試行錯誤していたのだが、映画で真のリアリズムに開眼した結果、歌舞伎に復帰した後は、以前にも増した若々しさで自然な大きな芸をみせた。映画に専念していたころは、丁度関西の歌舞伎の低迷期と重なっているのだが、時代を敏感に感じ取った鴈治郎は、逆境を後の糧にした。その自信と技量は見事である。

 以後の活躍は言うまでも無い。上方に止まらず、東西の大舞台で成駒屋ならではの役々で素晴らしい存在感を見せた。芸域の広さは卓絶しており、私淑していた二世延若に劣らないが、分野はより広かった。芝居が好きでたまらぬ性格で、どんな役でも買って出て見事な成果を上げたのもまた、腕と自信のなせる業であろう。

 終生勉強と創造心を失わず、鴈治郎歌舞伎を完成させ、枚挙にいとまの無い栄誉褒賞を受け、昭和五十八年、八十一歳で大往生を遂げた。初世鴈治郎没して上方歌舞伎の華が落ち、二世鴈治郎の退場で、上方歌舞伎の匂いが消えた。


(明治三十五年1902~昭和五十八年1983)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。

上方歌舞伎・想い出の俳優

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