上方歌舞伎・想い出の俳優



三世市川九團次

 明治二十六年、京都で生まれる。生家は九条の針工場で、父は市会議員を務めた竹内嘉作。十七の歳で上京し、浅草駒形蓬莱座で初舞台を踏み、二十歳の時、二世九團次の養子となり、莚蔵と改名。二十五歳の時、二世市川左團次の門に入る。

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 大正七・八年頃から関西に戻り、大正八年、当時売り出しの中村扇雀(後の二世鴈治郎)を中心とした青年歌舞伎に加入し、当初の女形から転じ、扇雀の「引窓」の与兵衛に対する濡髪長五郎で認められ、「石切」の大庭、「寺子屋」の源蔵、「忠臣蔵」の師直など、老け役では「賀の祝」の白太夫等でうでを見せた。

 自分の演し物としては、山崎紫紅作の「捕らはれの小西」の行長を得意とした。この新京極の明治座での青年歌舞伎の五年間が九團次生涯での最も華やかな時代であった。

 昭和三年二月、中座で初世鴈治郎の口上によって三世九團次を襲名、以後、関西歌舞伎で重宝な脇役として活躍した。場合によると、達者に任せて過剰な演技も有ったが、素人出の中年役者のハンディを克服した努力は立派である。

 上方の匂いを横溢させた演技は、明治大正期の関西歌舞伎の多士済々の脇役陣の中でも遜色は無い。晩年の持ち役は「忠臣蔵」の九太夫や、「本蔵下屋敷」の番左衛門などであったが、特に昭和二十四年、中座での「夏祭」で十三世仁左衛門の向こうに廻った義平次の泥絵具で書いたような味わいは見事であった。

 終戦後、甥に莚蔵を襲がせその成長に望みをかけていたが、期待通り花形になった莚蔵が、市川壽海に望まれ養子になり、雷蔵を名乗ってからは、往年の覇気をひそませ、更には糟糠(そうこう)の妻女を失った後は、その菩提を弔う事に専念し、関西各地の神社仏閣に「壽海・雷蔵」「九團次・はな子」の一対の石灯篭を寄進し、私財を費やした。

 亡くなる前、アメリカに渡り、歌舞伎を指導するという噂のあったのも、如何にも九團次らしいが、その望みも果たせぬまま、昭和三十年十月、六十二で没した。京都で生まれ、京都で育ち、そして京都の病院で終わった。文字通りの上方の役者であった。

(明治二十六年1893~昭和三十年1955)


奈河彰輔(なかわ・しょうすけ)

 昭和6年大阪に生まれる。別名・中川彰。大阪大学卒業。松竹株式会社顧問。日本演劇協会会員。

 脚本『小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)』『慙紅葉汗顔見勢(はじもみぢあせのかおみせ)』『獨道中五十三駅(ひとりたびごじゅうさんつぎ)』ほか多数。大谷竹次郎賞、松尾芸能賞、大阪市民表彰文化功労賞、大阪芸術賞。

 関西松竹で永年演劇製作に携わりつつ、上方歌舞伎の埋もれた作品の復演や、市川猿之助等の復活・創作の脚本・演出を多数手がけている。上方歌舞伎の生き字引でもある。

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