歌舞伎いろは

【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。



『恋飛脚大和往来』(※2)
寛政8年(1796年)に、大坂角の芝居で初演された。亀屋忠兵衛という人物が金銀を盗んだ金で遊女を身請けし捕らえられたという、実際に起きた事件を元に悲恋と人情を描いた戯曲。今回は梅川の身請けにからみライバルから挑発された忠兵衛が公金の封を切ってしまう「封印切」と、罪を犯した忠兵衛・梅川が落ち延びる「新口村」を観劇。
ミニマム(minimum)(※3)
最小、最小限。
レイヤー(※4)
画像を作るソフトなどで、1枚の絵を作るために重ねることのできる「層」をここでは指す。絵が描かれた透明の板のような層が重なったり減ったりすることを、歌舞伎の大道具・小道具の演出効果を例えている。
 

“妄想力”を喚起する、ミニマムな美

 30分の幕間は、歌舞伎座の売店をチェックしました。

服部「わー!この手ぬぐいとか、いつも売ってるんですか?」

 所狭しと商品が置かれた売店を、服部さんは嬉しそうに見て回ります。

服部「芝居観て楽しい気分でここに来たら、購買意欲がそそられますよね」

 いつの間にか、八つ橋をお買い上げ。次の幕に向けておやつを用意するとは、かなり劇場の空気を読んでいらっしゃいます。

服部「僕、ここで働きたいです。1日でいいから」

富樫「え?なんで?」

服部「楽しそうじゃないですか。自分たちで作ったものを自分たちの劇場で上演して、自分たちでお土産売って。こんな楽しいことないですよ」

 すっかり楽しくなった後は…近松門左衛門の心中ものです。「心躍る非日常」と「心が痛くなる非日常」が同居する。それが歌舞伎座で日常的に味わえる、不思議な快楽です。

 拝見したのは『恋飛脚大和往来』(※2)。大坂新町の華やかな遊郭を舞台にした人情劇「封印切」。続いて、梅川と忠兵衛が死を覚悟して落ち延びる「新口村の場」は、梅の花を染め抜いた着物のふたりを、降りしきる雪が包んでの美しい幕切れです。

服部「ものすごくミニマム(※3)な美しさを見ました。そしてミニマムだからこそ深さがあると思いました」

富樫「例えば?」

服部「例えば最後、死を決意したふたりが忠兵衛の父親に会ってから落ち延びていく場面。どんどん雪が降っていたでしょ?死に向かうふたりの姿が見えなくなり、お父さんの姿も見えなくなり、どんどんレイヤー(※4)が重なっていく。雪が降っているだけで距離感や、とり戻せない時間の感覚が伝わってくるんです。ぐっときました」

富樫「冷静に考えると背景は書割だし、雪だって紙なんですよね。なのにふたりが雪深い、誰もいない場所に向かっているのが分かる。すごいですよね」

服部「日本人はそもそも、ミニマムなものから情景や深い人情を感じる想像力や妄想力を持っているんですよね。なぜそういう表現が成立するかというと、そぎ落とした情景やモチーフの中にあるキーワードが残されているからです。そのキーワードを読み取った瞬間に、自分の持っている引き出しが開いて妄想力が働くんですよね」

富樫「今日の『新口村』で言うと、新調したお揃いの着物を着た美男美女が雪の中を歩く姿は美しい。でもそこに『死』というキーワードを読み取った瞬間、覚悟や切なさ、後戻りできないことをしでかした人間の追いつめられ感が一気にきますよね」

服部「ミニマムな表現というのは、いかに感じるかを観客に託しているんですよ。例えば歌舞伎には、見得を切って静止するという演出があるでしょ?観方によってはただ静止してるだけ、台詞も言わないし、でもそれが実は感情を読み取る作業のための時間なんだと今日観ていて思いました」

 今は表現すらも便利になりすぎている時代。映画やテレビの映像は日常と全く同じ空間の中で、同じスピードで物語が進むから想像力を働かせる時間がない。けれども本来は、そぎ落とされたものから何を伝えるか、そして何を感じるかが表現なのではないかと服部さんは言います。

 

富樫佳織の感客道

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