歌舞伎いろは

【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。



『三人吉三』(※6)
1860年に初演された河竹黙阿弥の戯曲。将軍家の重宝「庚申丸」の紛失騒動を軸に、“吉三”という名前を持つ三人の盗賊が因果に捕われた不条理な人生を生き抜く物語。
『夏祭浪花鑑』(※7)
1717年7月竹本座初演。大坂の堺を舞台に、武家に仕える召使い・団七と女房お梶の忠義を核としてはぐれ者の悲哀や人間の欲を描いた世話物の名作。団七が舅の義平次に悪態の限りをつかれ我慢ならず殺してしまう場面は連続する見得に心の葛藤と歌舞伎の美しさが凝縮されている。
 

歌舞伎に生きる“芝居の遺伝子”

富樫「串田さんが歌舞伎を演出するようになって、変わったことは?」

串田「不遜な言い方かもしれないけど、変わったというよりも『そうそう!こういうふうにしたかったんだよね』というのを歌舞伎に感じることが多い。知らなかったことを発見したというよりも、お腹の中に、血の中にあるものに自信が持てた気がします」

 今年6月のコクーン歌舞伎は6年ぶりの『三人吉三』(※6)。
 串田さんが美術監督も勤める舞台は、漆黒の板壁で囲まれています。その暗さは物語の舞台が深い闇に包まれた夜であることを気づかせ、夜行性動物のように生きるしかなかった登場人物たちの切なさと凄みを無言で語ります。

串田「三人吉三は、三人とも悪者。世にはびこったら困っちゃう人たちなんだけど、どこか我々の罪を全部引き受けてくれるような、なんか切ないものに見えてくるんだよね」

富樫「我々の罪とは?」

串田「例えば『夏祭浪花鑑』(※7)で主人公の団七が義父の義平次を殺しちゃうよね。義平次は嫌味だし、見てるほうにしたら悪い奴じゃない。だけどやっぱり義理の父親を殺しちゃいけない。挑発されたのに団七は負けたんだよって、それは社会で教わることでしょ?」

富樫「モラルとして」

串田「でも芝居の中では、団七の気持ちが分かる!いいんだ!それで!って言っちゃいたくなる。人間の中で矛盾するもの、社会の中ではこうだって教わったけど、それじゃ収まらない感情や正義感を芝居を観ることでバランスをとっているところが人にはあるんじゃないかな」

富樫「自分の実生活では決してしないことをする悪党。そんな彼らに感情移入する感覚は陶酔に近いですよね」

串田「人間ってなんか帳尻が合わない生き物なんだと思う。その帳尻の合わなさをじゃあどこで処理したらいいのか。現実の中で無理ならば、じゃあ芝居の中でって。それが芝居の自由さじゃないかな」

 人間の中に渦巻く切なさや矛盾。串田さんにとっての源流は少年時代の記憶です。終戦後、近所に“泥棒”と言われる青年が住んでいた。こげ茶色のタートルに無精髭のミステリアスな男。少年だった串田さんはある日、探検と称して悪党と呼ばれる男の家を覗きに行きます。心臓が破裂しそうになりながら窓の隙間を覗き、目にしたのは静謐な光をたたえるマリア像。その時に感じた言葉にならない罪悪感、善と悪のゆらぎ、社会では語られない真実…

串田「芝居は現実の世界と違うんじゃない。ひとつの現実を角度を変えて見ることで皆が現実と思っているものとは違うものが見えるもの。全てが虚構ではないんです」

富樫佳織の感客道

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