歌舞伎いろは

【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。



(※1)『寿曽我対面』
曽我兄弟が富士の裾野で父親の仇である工藤祐経を討つまでをまとめた『曽我物語』は、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎で様々に脚色された。作劇法は神社仏閣の境内で「発端」、続いて御家の重宝・友切丸を曽我兄弟の家臣が捜索する場面、工藤の館に乗り込む所作事から「対面」へとおおむね固定化されており、多くの観客にとって“ご存知”の演目として愛されている。

 

「嘘」という約束の向こうに真実を探る

 今回は『寿曽我対面』(※1)『熊谷陣屋』『鏡獅子』と、おなじみの名作揃いです。

 曽我兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った『曽我物語』を題材とする“曽我狂言”は、江戸っ子にひときわ愛され初春興行の吉例となりました。大道具や衣裳、隈取、隅々まで歌舞伎の様式美に彩られた芝居が始まると町田さんは舞台に意識を傾けます。

富樫「ディス・イズ歌舞伎!という要素の詰まった芝居でしたが」

町田「まず面白いと感じたのは、芝居の冒頭で『いまから始まる世界は嘘です』という前提がパっと分かるようになっていたことですね」

富樫「例えばどんなところですか?」

町田「幕が開くとまず御殿に大名が前を向いてずらりと並んで座っていて、その前に普通より大きめに作られた道具が並べられていましたよね。それを観ただけで『まあ仮にここはこういうふうにしましょう』という場面設定なんだな、という約束が作る側と観る側の間に共有されるんですよ。通常、大名があのように全員前を見て並んでいるということはないですからね、きっと」

富樫「確かに(笑)」

町田「しかも口々に『ここで工藤祐経に取り入って自分も上手くやれるといいなあ』ということを何人かで台詞を分けて言っている。あれも『これは嘘なんです。芝居なんです』という約束ですよね。なぜなら人が10人くらいいて、同じことを考えているっていうことはまずないでしょ。まずないことをいきなり堂々とやってしまう。そういう面白さがあるんだなと思いましたね」

 のっけから『嘘ですよ』と言い切る約束は、ある感情を喚起すると町田さんはおっしゃいます。

町田「例えば映画だと、観ている人が『これは嘘』と感じないように美術や小道具ひとつひとつにもこだわりますよね。本当に主人公が生活しているような部屋でも、実は美術さんが『本当に見えるように』作った空間です。でも人間というのは不思議なもので『これはほんとうですよ、ほんとうです、ほんとうです』と言われ続けていると『実は嘘なんじゃないか』と思ってくるんですよ」

富樫「(笑)そうですね」

町田「すると、だんだんしらけてくるんです。だから、現代のドラマ的表現はそこをしらけさせないようにものすごい緻密に『ほんとうですよ、ほんとうですよ』と言っているんですよね。でも歌舞伎はあえて『ほんとうですよ、ほんとうですよ』と言わない。どこかで『うそですよ、これはうそ』と言っている気がするんです」

富樫「親の仇が目の前にいるのに悠長に名乗りを交わしたりしてるところがもう、芝居がかってますもんね。…芝居なんですけど。でも映画やドラマの世界に慣れていると『その前にまず仇をとるんじゃないか、普通』と思いますよね」

町田「人物の並び方や台詞、衣裳、大道具、小道具で埋め尽くされる舞台が『うそですよ、これはうそですよ』と常に言っているんですよね。でも逆に不思議なもので『ほんとですよ、ほんとですよ』って言われているよりも、もしかしてこっちのほうが本当なのかもしれない!そこまで嘘っていうってことは、もしかしてなにか真実が隠されているんじゃないか、と思ってしまう」

富樫「何かとんでもないことから目をそらせようとしているのかな?とか」

町田「理屈で『嘘の中に真実がある』というのではなしに、感覚的に今観ているものの中に本当のことがあるのかもしれないと思うし、それを思う以前に理由が分からないけど感動していたりするのも面白いなと思いましたね」

富樫佳織の感客道

バックナンバー