歌舞伎いろは

【歌舞伎いろは】は歌舞伎の世界、「和」の世界を楽しむ「歌舞伎美人」の連載、読み物コンテンツのページです。「俳優、著名人の言葉」「歌舞伎衣裳、かつらの美」「劇場、小道具、大道具の世界」「問題に挑戦」など、さまざまな分野の読み物が掲載されています。



どこかで知っている、あの感覚

 今回拝見したのは、泉鏡花作の『夜叉ケ池』(※1)と『高野聖』(※2)です。明治・大正時代に書かれた原作を舞台化した作品には、古典の歌舞伎とはまた違った日本の情景が描かれています。大道具が作り出す美しい山河の風景。それは私たち観客の中にあるふわりとした記憶を、揺さぶります。

副田「古典以外は初めてだったので、新鮮な発見がありますね。背広を着た人が出てくる芝居も歌舞伎なんだ!ということも驚きですから。着物だけじゃないんだ、と(笑)」

富樫「背広の人も出てくるし、さらにカニの精とかナマズの精とか自然界の魔物がごく普通に出てくるところが歌舞伎っぽいと思いました。ただ…あのファンタジー世界に共感するのが、我ながら不思議なんですよね」

 人間界と魔物の世界が入り交じる幻想的な鏡花作品。しかしそこにはどこかで見た風景、どこかで聞いたことがある会話…くすぐったい、リアルな手触りがあります。長く残る表現とは、この「どこかで知っている」感覚を観る人それぞれに喚起させるものなのでしょうか。

副田「そうだと思います。全ての表現物に言えることですが、観る人の中に内在している何かを揺さぶるからこそ、共感が生まれるんです。作者が一方的に与えた世界を見せられても、人は感情移入できません。既視感だったり記憶のかけらだったりが、表現と言われるものにはすごく大切なんです」

富樫「分かっていながらも『400年前のことになぜ共感してるんだろう』と我に返る自分もいるんです。いつも」

副田「今、洋服を着て生活している僕たちからしたら歌舞伎は確かに別世界ですよね。でも歌舞伎が誕生した当時は登場人物と同じような服装をして、同じような生活をする観客が観ていた。だから表現の根本にリアリズムがあるんですよ。現代に生きる僕らが400年前のものに心を動かされるのは、人間の本質的な部分、ひとの性(さが)だったり、心のありかた、もちろん男女のこととか、そういった普遍的な感情が作品の根底に流れているからなのでしょうね」

 副田さんの作品を見ると、そこにはやはり新しさと、どこかで見たことのある感覚が同居しています。完全な作り物ではなく、どこかにリアリティーを内包する表現。心や記憶には時を経ても生命が宿り続ける、そう、副田さんの作品は教えてくれます。そして歌舞伎の中にも、その生命感は生き続けているのだと感じました。

 

岩田屋「想い出の街」
九州の老舗百貨店の広告キャンペーンのため一般の方々から懐かしい写真を募集する課程で、地元写真家が撮りだめていた作品を発見、起用した。昭和30年代の福岡。そこに映っているのは特別な場所の特別なことではなく、見る人すべての記憶を喚起する「どこかで知っている」想い出である。

(※1)『夜叉ケ池』
泉鏡花が福井県と岐阜県県境にある夜叉ケ池の龍神伝説をモチーフに書いた戯曲。天地を馳せ暴れまわっていた龍を夜叉ケ池に封じた鐘を守る人間界の夫婦と、池の底に住む龍の化身ら異界とが交錯する幻想的な物語。大正2年(1913年)に雑誌「演芸倶楽部」に戯曲として発表され、3年後の大正5年7月に東京本郷座で初演。

(※2)『高野聖』
諸国を廻り勧進に勤める僧、高野聖の宗朝は飛騨から信濃へ越える山中で一夜の宿を借りるため不思議な力を持った女と出会う。つつましい性格ながら、森に住む獣たちと通じ合い厳しい気性を見せる魔性の女の二面性に、泉鏡花の妖しい美の世界が込められている。明治37年(1904年)に東京本郷座で初演。

 

富樫佳織の感客道

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