朝倉義景
室町時代後期から戦国時代にかけて越前を支配していた戦国大名の名門朝倉氏。本拠地とした越前一乗谷は、毎年のように都から将軍や公卿が招かれ、都の文化が流入し"第二の京"といわれるまでになっていました。義景はその朝倉家の最後の当主です。
永禄8年(1565年)、室町幕府将軍、足利義輝(あしかがよしてる)が松永久秀(まつながひさひで)に暗殺されたおりも、義輝の弟、義昭(よしあき)は朝倉氏を頼り、越前で元服し将軍職を継ぎます。このとき、将軍義昭は義景を頼んで京都奪還を図ろうとするのですが、義景は兵を動かさず、業を煮やした義昭は、当時朝倉の家臣であった明智光秀を通じて織田信長に近づき、その結果、信長が義昭を奉じて上洛しました。
義景は、この信長と義昭に再三上洛を促されますが、名門大名としての誇りが織田家に頭を下げるのを潔しとしなかったのか、上洛を拒否。朝倉勢と織田勢が鉾盾を交える≪元亀争乱≫がはじまります。
朝倉側は、信長が妹お市を嫁がせていたにもかかわらず浅井長政(あざいながまさ)が参陣し、石山本願寺の一向宗などとともに信長を再三窮地に陥れます。しかし元亀4年(1573年)、反信長包囲網の片翼を担う甲斐の武田信玄が没したことで勢いを得た信長は室町幕府を滅ぼし、一転して朝倉・浅井攻めへと転じます。
織田方の内部工作により足並みが乱れ始めていた朝倉勢は、刀根坂の戦いで壊滅的打撃を受け、一乗谷城も三日三晩炎上して落城しました。義景は従兄弟に当たる朝倉景鏡(かげあきら)に裏切られ落ち延びた先で自刃。信長は義景の首を京へ送り晒しています。また、その髑髏を漆で固め杯にしたともいわれます。
義景には正室や側室、嫡男もいましたが、いずれにも先立たれ、最後に側室としたのが小少将(こしょうしょう)でした。容色才気あふれるこの小少将は寵愛され、愛王丸という跡継ぎにも恵まれますが、豪奢な暮らしを好み、政事や人事にも口を出す、まさに"傾城傾国の乱れ"の元であったと『朝倉始末記』※には記されています。(み)
※『改訂史籍集覧 第6冊』近藤出版部 1919年
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